実家のリビングで 未来の欠片を 眺めている少女に伝えたい物語
23.04.05 INTERVIEW
沖縄県浦添市。真面目で仕事人間だった父と、専業主婦の母。2人の兄の下に生まれた、5人家族の末娘。
将来自分も全く同じ家族構成の家庭を持つことになるとは思っていなかった。
とにかく末っ子で唯一の女の子。母とはよくお喋りしたけれど、父とは遊んだり、何かを一緒にしたという記憶はあまりない。
家の庭で遊んだり、水遊びをしたり、お部屋で絵を描いたり。母曰く、手が掛からずに育てやすかったらしい。
父が建てたマイホームを母はいつも綺麗にしていた。クリスマスになれば玄関周りに飾りつけをしていたし、その季節その季節の花も咲いていた。
家の中にはインテリアの本がいつも置かれていて、物心ついてからはそれをパラパラと眺めるのが好きだった。
ファッション誌を見るより、インテリアの本が好きだった。好きが高じて自分の部屋のカーテンを選ばせてもらったり、部屋をピンク基調に揃えていったり、模様替えをして気分変えたり、お気に入りの人形を置く場所をこだわったり…。思えばインテリアコーディネーターとしての原体験は、自分の家と自分の部屋だったと思う。
でもそこにたどり着くまでには、少し遠回りをしなければならなかった。
小学校、中学校とそれなりに要領よくこなした。
掃除をしない男子に注意する正義感を持っていたり、夏休みの宿題はギリギリになってでも、終わらせるタイプ。
友達もいたし、部活もした。おとなしい優等生タイプを演じたと思ったら、急に友達とバンドを組んでボーカルをしたりもした。なのに親からススメられた習い事も辞めずに続ける。満たされた日と寂しくなる日が、まだら模様に訪れて、未来や目標がハッキリ見えずモヤモヤした想いを抱えていた。
高校生になった。国際通りに遊びに行ったり、恋をしてみたり。
クラスでおとなしくしている子を見つけると気になって声をかけちゃうこともある。
だからと言って、仲良くなるわけではなくて。
要は世話焼きだった。
それなりに充実した高校生活。進学・進路はどうしよう?と考えた時、一番最初に頭によぎったのは「インテリアコーディネーター」だった。
こういう時の相談相手は父だった。話しやすいから。ではなくて、一番身近な「社会」だったのかもしれない。
「インテリアコーディネーターだけできる。みたいな仕事はないはずだ。」
父にそう言われ、そんなもんかと思って諦めた。
たしかにこの時代はまだインテリアコーディネーターという仕事は、特にこの沖縄という土地で成り立つ土壌はなかったように思う。
となると、次に浮かんだ興味は「心理学」。なんとなく人間と言うものに興味があったのだ。またついでと言ってはなんだか、末娘である私に課せられた厳しい門限からの脱出が進路を決める大きなテーマになった。
東京で「健康心理学」という学問があって寮もある。そんな大学を選び受験した。もちろん父には反対されたが、なんとか強引に押し切った。半ば強引で不純な選択だった。
初めての東京はキラキラしていたが、次第に慣れた。
寮生活は意外に不自由だし、友人関係も相変わらず可もなく不可もなくこなせるが、本当の友人と呼べる人は少なかった。
せっかく飛び出してきた東京の大学。でも、どこか本気になれない。未来は相変わらず霧がかかっているようで、ハッキリ見えない。
本気になれない勉強だった。成績が悪いことも親にバレて心配させた。
せめて、この学科の目的の1つでもある「精神保健福祉士」という資格だけは取らなければと思い何とか踏ん張った。2週間の実習は、病院の精神科だったり、就労支援センター。まさに現実の厳しさを突きつけられ、泣きそうな日々を送った。
何とか卒業の目途はつけた。でも就職は完全に沖縄だなと思った。東京はもう充分だった。
自分の特性なのか、何なのか。試験と呼ばれるものは何とかクリアできてしまう。就活も沖縄の実家から車で40分かかるものの、精神保健福祉士の資格を活かせる老舗の病院に採用してもらうことができた。
この病院には、患者さんと病院とご家族をつなぐ相談員として4年間勤めた。
ドクターに怒鳴られることもあった。患者さんの入退院の調整がうまくいかなくて、周囲に迷惑をかけたことも。婦長さんとのやりとりも、ちぐはぐだったりもした。
「私このままでいいのかな?この仕事続けていけるのかな?」
どこか本気になれていない自分を感じつつ、そんな気持ちで働いていることに罪悪感もあり、それでも経験を積まなくては…と思い直しては、またつまづいて…。という日々だった。
気づけば、体重もかなり落ちていて。毎日、心が動いていない自分がいた。
何かが違う。何かを変えなくては、私はどうにかなってしまう。
ある時、いつものように実家のリビングに置いてある「住宅新聞」を手に取った。そう、私は昔からインテリアが好きだった。
「インテリアコーディネーター協会の試験対策講座」が毎週土曜日に開催されているという情報が目に止まった。
「これだ!これしかない!」
全く別の職種についている自分が、インテリアの仕事をしようと思ったらとにかく、資格を取るしかない。一度は諦めたインテリアコーディネーターという仕事。でもやっぱり仕事は心から好きなことしか続かない。とにかく仕事は楽しみたい。
高鳴る気持ちを抑えきれずに、職場のロッカーで昼休みに小声で電話をかけ、この講座に申し込んだのを覚えている。
病院も退職するつもりだった。27歳になる。人生やり直すには遅くはないが、決して有利な年齢でもない。初めて自分の人生を自分で背負った瞬間だった。
足がすくむような不安感と、何かから解き放たれた開放感を同時に味わった。
後先考えずに選んだ道。
とにかくまずは資格試験に合格しないと始まらない。休みなく勉強して、めでたく一発合格。
就職先も講師をしていた先生からの紹介で大手建設会社のデザイン室での仕事を紹介してもらえた。
先任者が育休に入るとのことで、ちょうどインテリアコーディネーターとして1人女性を探していたとのことだった。
建設会社はそれまでの病院勤めとは違って、THE男社会だった。
隣りの席は建設現場と事務所を行ったり来たりする作業着をきたおじさん達。
最初は戸惑ったが、みんな話せば優しい人たちばかり。右も左もわからない私を可愛がってくれた。
仕事もいきなり現場を持たされた。
若い兄弟の2世帯住宅。外観の色、照明の種類、壁紙、床材…とにかく間取り以外の全部を打ち合わせしながら決めていく。
工事スタートまでの3ヶ月で18回も打ち合わせをした。
家が完成した後お客様に「新崎さんと家づくりができてよかった。」そう言われた日の帰り道の景色は今でも忘れられない。
人生で初めて本気になれることに出会えた。
住宅、アパート、クリニック…。いろんな建物の内装やインテリアをお客様と一緒につくっていく。
特に家をつくる場合は、そのお客様のことを理解することから始める。
普段着ている洋服、好きなリゾートホテル、お気に入りの居酒屋、特別な日の過ごし方…。
結婚したときの馴れ初めや将来の夢…。
何度も何度も打ち合わせをして、そのお客様がどんな仕事、生活、未来を生きるか…それをぼんやりイメージできるようになってから、プランを考える。
そしてそのイメージを設計、施工、さまざまな業者の皆さんとカタチにしていく。
そのどれもが楽しい仕事だった。
29歳で結婚、30歳で長男を出産した。34歳で次男も出産。
もちろん、子どもたちは可愛かったし、一番大切な存在だけど、全く比べられるものではなく仕事も大好きだった。
夫よりも帰りが遅くなる日もあったりしたが、辛いとは一切思わなかった。
一時期、夫が単身赴任の時期があった。子ども2人を自分1人で見ている…というストレスよりも、せっかく仕事が楽しくノッテいる時期に自分だけセーブした働き方をしなければいけない…。ということに不満があった。
会社の方針も、インテリアコーディネーターの女性たちを中心にしたデザイン室をつくってくれたり、責任とやりがい。そしてチームのメンバーの調和。全てが順調で、とにかく仕事がしたい時期だった。
とは言え、そういう気持ちが空回りを生んだ。
家庭では、手がかかる時期の息子を2人持つ母だし、会社ではキャリアを積んだものの、役職が就くほどの貢献はできてない。家庭も仕事も中途半端。気持ちだけが焦って、どっちも満足にやれていない。そう感じるようになった。
一度はハッキリ見えた未来も自分らしさも、あっという間に見えなくなってしまった。
以前、体験したことがあるような感覚に襲われた。きっと病院勤めで悶々としていた時期と一緒だ。
何かを決めて、変えなくてはいけない。自分が楽しいと思える方に。自分が自分らしくいられるように。
それでも約2年。悶々と考えながら働いた。結果、大好きだった会社を退職することにした。
インテリアコーディネーターという仕事の楽しさを教えてくれた、未経験だった自分に機会をくれた大切な職場だった。
辞めはしたが、次の道を決めているわけではなかった。
ただインテリアコーディネーターの仕事は続けたい。でも別の会社にまた勤めるのは、違う。
だからと言って、専業主婦は自分にはできない。とにかく仕事がしたいのだ。
時間に縛られず、場所に縛られず、家にいながらインテリアコーディネーターの仕事はできないものか?
折しも世の中はコロナ禍に突入し、オンラインでの仕事環境も普及していった。
「フリーランスとして働けばいいんじゃない?」
そんなアドバイスも聞こえてきたが、まさか自分がそんなことできるはずがない…。そう思った。
でも、身近にそういう働き方をしている人たちに出会い話を聞くと、俄然楽しさが湧いてきた。次の働き方はこれかもしれない!
そう思って動いていたら、以前の職場からお仕事の紹介がきた。
他にもインテリアコーディネーターとして専門学校で授業を持ってくれないか?という話もきた。
私なんかよりも、経験がある方いるし、恐れ多い…と断りかけたが、
「新崎さんらしい授業をつくってくれたらいいんです。」という言葉に背中を押された。
そうだ。きっと実家のリビングでインテリア雑誌をパラパラめくっていたあの日の私のような子たちが、今日もどこかにいるのだ。あの日の私に、
「インテリアコーディネーターの仕事ってこんなに楽しいんだよ。」
と伝えることができたなら。そんなに嬉しいことはない。
霧がかっていた未来が、ようやくまた晴れてきた。
そう思ったのも束の間…。
めでたく3人目の長女の妊娠、出産でまたお仕事をお預けされた(笑)
でも、もう以前と違って焦ったり慌てたりしない自分がいた。
今はゆっくり家族に時間を使い、徐々にまた仕事を再開できればと思っている。
もう以前のように、先が見えないわけじゃない。
何をやりたいのかわからない…と迷っているわけでもない。
自分が楽しい方に。
自分が自分らしくいられる場所に。
それさえ忘れなければ、人生はいつも素晴らしい方に私を連れていく。
そう信じることができている。
これが私のMYSTORY。
PROFILE
新崎奈々子
くらしデザインUS代表
フリーランスのインテリアコーディネーター
沖縄県インテリアコーディネーター副会長
現在は自分でプランニングした築30年のリノベーション物件で家族5人で暮らしている。
家造りや暮らしについて、もっとわがままにもっと自由に造ってほしく、コーディネートに反映させていくことを大事にしている。
打合せしながらお客様と女子トークしている時間が大好き。
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人はいくつになっても変われるそんな物語~求められる自分と本来の自分の狭間で~
長谷川名沖
Naoki Hasegawa父親は根っからのチャレンジャー。若い時に渡米して一旗当てようというバイタリティーがあった。...
ここまでの彼女のSTORYは一見、大きな山や谷がなく、上手に要領よく生きているように見えるかもしれない。それは末っ子として育てられてきた元来持っている「したたかさ」によるところも大きいのであろうと思う。
自覚なく周囲を見ているし、自覚なく気を遣って生きている。見えない未来に向かって闇雲に走り出すような無謀なことはできない。自分のブレーキとアクセルの使い方を理解していたのかもしれない。ただここまでの人生で一度も彼女はアクセルを踏めていない。そういう漠然とした焦燥感は多くの若者が通る道だ。