MY STORIES

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東大受験と司法試験。暗く長いトンネルの果てに見えたゴールとは

22.02.16 INTERVIEW

「今は毎日が楽しい。やっとやりたいことができている。」

そう嬉しそうに語る2021年。行政書士事務所を開業した。その年の初めまで、退職を考えなかった会社を辞め、開業初日の朝9時から、依頼がきた。

真面目で誠実。人が嫌がる面倒なことも嫌な顔ひとつせず率先してやるタイプ。

一見、そう見える彼の背後にあるSTORYには何があったのか?見えている側面だけで人間を判断してはいけない。という教訓をおしえてくれる、そんな物語だ。

 

千葉県袖ケ浦市生まれ。共働きの両親と4歳下の妹。祖父・祖母と父の姉と妹と賑やかな家庭で育った。

勉強はできたが、とにかく運動が苦手だった。中学に入った時の身長は137cmしかなかった。

マラソン大会があっても、ほぼほぼ最下位。短距離を走ればアヒルみたいだと笑われ、球技もからっきし。

友達がいないわけではなかったが、家に帰ると1人で過ごし、暇を持て余していた。

 

中学に上がっても、基本的には大人しい性格。それでも自分では制御できない“何か”が内側に眠っている気がしていた。

小中とずっと、隠れてコソコソと自分をイジメてくるヤツがいた。

「次こんなことされたら…」

もう少しで事件になるようなことを起こしてもおかしくない自分がいた。ただ、意気地がなかった。中途半端な強さを持っていれば、自分は今の自分ではなかったかも知れない。

 

高校に上がると、人並みに恋もした。

彼女がバイクが好きだと言うから、自分もバイクを買うために、禁止だったアルバイトを始めてしまう。

押し付けられるように生徒会長にもなった。決して望んでなるタイプではないが、生徒総会で周りのざわざわが収まらないと

「うるせーーー!」と叫んで、周囲を驚かせることもあった。

またある時は、彼女にフラれたショックで、突然頭を刈り、スキンヘッドにしてしまう。

 

自分の内側にある“何か”のネジが外れることがたまにあった。

 

この頃から、よく本屋には立ち寄っていた。

ある時小沢一郎の半生を描いた本をたまたま手に取った。本人と言うより、その父親のことも詳しく書かれていた。弁護士で、近所のお困りごとを細かく聞いて回る人物だったようだ。

 

何か武器を持ちたいと思っていた。

わかりやすい武器。弱い者を助けられる力。自分みたいな人間にそれができるとしたら弁護士になるしかない。

あまり深くは考えず、直感でそう思ったら、もうそれに向かって走り出す。

こういう時にもネジは外れる。

 

目標は東大文Ⅰ。今いる高校でも成績は上の下くらいだったが、もうそう思い定めて親にも学校にも周囲にも宣言した。決めてしまえば、周りの声はあまり耳に入らない。

現役での入試は、当たり前のように届かなかった。センター試験の時点で足切り。二次試験すら受けられなかった。

すぐさま予備校に申し込んだ。正直1年浪人すれば何とかなる。そう高をくくっていた。

この年は、必死に勉強をした。詰め込んだ。朝から晩まで予備校のカリキュラムを消化して、帰っても勉強。

それなりの達成感を持って、再度受験したが東大どころか地元の千葉大学の法学部すら受からなかった。

 

父親も、方々で「うちの息子は東大を受ける」と言っていたようだし、さすがに親に対する申し訳なさで、しばらく呆然自失とした日々を送った…はずだ。正直この頃の記憶はない。

 

ある親戚のおばちゃんが「がんばれよ」と泣きながら2万円をくれたことだけ、刺すような胸の痛みと共に記憶している。

翌年は方針を変えた。予備校頼りの勉強ではなく自分のペースで自宅浪人することにした。当時はインターネットもない。ただただ孤独との闘いだった。

この頃イメージトレーニングに…。と東大の安田講堂前で合格バンザイ!としている写真が残っている。

努力の成果もあり、この年は2次試験でも勝負ができそうなところまで漕ぎつけた。

が、結果は2次試験前期の試験では不合格。

まだ当時は現地まで合格発表を見に行く形式だった。絶望感と不安感で、東京駅の地下鉄のトンネルが、自分の将来と重なった。このまま、延々と暗い道が続くだけの人生なのではないだろうか?

 

今年は当然受かるもの、と思っていた能天気なお向かいのおばちゃんが

青白い顔でボーっと家路についていた自分に

「恒雄くん、どうだった!?」と無遠慮に聞いてきた。

 

たぶん、この日。泣いてはいない。

ただ暗いトンネルの中で、ボーっと考えて、ふと目にしたのが冗談半分で取り寄せていた琉球大学の願書だった。

それには青い海とサンゴ礁・いかにも沖縄の人という濃い顔の人たちの弾ける笑顔が写っているパンプレットが同封されていた。

 

もう疲れた。

これまでの価値観を変えてみよう。そう思った。暗い暗いトンネルを抜けるにはこれくらい明るい場所に行く必要があるのではないか?

そう思い、人生初めての飛行機は琉球大学法文学部受験のために乗った。

親元を離れた解放感。バカみたい明るく痛い陽射し。空港に降り立った瞬間のモワッとする湿気。それだけですでに人生に希望と明るさが舞い戻った気がしていた。

 

琉球大学法文学部に進学。そして寮生活。2浪が特に珍しいわけでもない。お酒もたくさん飲んだし、恋愛もした。ずっとやってみたかった空手も始めた。

ただ司法試験を受ける。弁護士を目指す。という軸はブレなかった。

司法試験を受けるサークルに入り、何百本もある教材ビデオを買うためのアルバイトにも励んだ。

仲間と共に勉強したり、誘惑に負けたり。2年遅れた青春を謳歌しながらも、やっぱりここでも弁護士になるという目標は周囲に公言していた。

抑えとして、公務員試験を受ける。なんていう選択肢は自分にはなかった。現役では無理でも5年10年かけて受かる。そう思っていた。

 

司法試験は毎年5月の第2週にある。受験生は毎年母の日が勝負の日。何とも親不孝な日程なのだが、とにかく大学4年次の結果は当然のように不合格。

そして卒業後を待たずにこの時点で、人生で2度目の浪人生活が決定する。

 

25歳の春。大学の卒業とともに千葉に帰った。父がガンだった。

思えば東大受験から始まり、司法試験。この出来の悪い息子の挑戦を反対することは一度もなかった。むしろ誇りに想ってくれていた節さえある。

最後の時、父は何かを伝えたそうだったが、それが何だったのか。想像するしかなかった。

 

その年は千葉で塾講師のアルバイトをしながら司法試験に挑戦した。

父の期待も込めて、踏ん張ったこの年の結果も無残な形で突きつけられた。

 

それから6年。30歳になっても、この状況は変わらなかった。

まるで大学受験の時に味わったあの終わりの見えない暗いトンネルにまた自ら迷い込んだようだった。

そしてこのトンネルの長さは、大学受験の比ではなかった。

 

ただ、今思えば贅沢な時間だった。とも思う。

お金はないが時間はある。人との関りはないが時間はある。

とにかく人生でこんなに時間がある時を過ごせたことは後にも先にもない。

終わりの見えない暗いトンネルをただ一人走り続ける。

それは苦痛ばかりではない。自分という、やっかいで不可解なものと、嫌になるくらいの向き合う時間でもある。

 

彼はこの数年後。ランニングと出会う。不安と焦りと不規則な受験生活で乱れた身体は睡眠導入剤に頼らないといけなくなっていた。それを救ったのがランニングである。

恐らくランニングと受験勉強は、彼の中で表裏一体、切っても切り離せないものなのだと思う。それは彼のランニングに対する取り組み方を見ていると、わかる。苦しみを楽しんでいるのだ。過酷なら過酷なほど楽しい。それはランニングも司法試験も体験した者だけが共有できる特別な感覚なのかもしれない。

余談だが、彼はランニングをきっかけに愛妻をも得ることになる。走ることはゴール以外に得るものがあるのかもしれない。

 

琉球大学に法科大学院が設立されていた。平成18年、30歳の時に恩師からの誘いもあり最後の気力を振り絞って、もう一度沖縄で挑戦してみることにした。

制度としてもこの5年間で合格しなければ、受験することすらできなくなる。ゴールがあるというのは有難い。走る気力が湧いてくる。6年振りの沖縄だった。

 

琉球大学法科大学院。いわゆるロースクールではこれまで出会ったことない人達と出会えた。芸能プロダクションの社長や医師。東大卒の人間もいれば、公務員を辞めて通っている者もいた。

 

この中にいた10歳年上の人生の先輩に多大な影響を受けた。NAHAマラソンに出場したのもこの先輩の誘いだった。最もこの先輩ともども制限時間にはまにあわなかったのだが…。

それからロースクールでの勉強とランニングにどっぷり浸かる日々を送った。嫌なことがあっても走れば忘れられた。

 

時は流れ、

2010年。35歳。新しい制度になって2度目の挑戦。前年よりさらに得点が下がる。

2011年。36歳。試験前に体調を崩しこの年は試験をパス。ロースクールも卒業し、沖縄銀行でのリーガルアシスタントという受験勉強しながらリーガルチェックを行うお仕事も得ていたが契約終了し、千葉に再び帰郷することを余儀なくされた。

 

2012年。いよいよラストチャンスの年。模擬試験では見たこともないような成績を取った。ある科目では全国3位の成績も叩き出した。この年は何かを掴んだ手応えがあった。そんな期待を胸に受けた最後の司法試験。

 

結果は不合格。

 

落ち込みはしたが、それ以上に清々しい気持ちに包まれていた。

ようやく長い長いトンネルを抜けて、自分なりのゴールを切れた。それは高校生だった自分が描いたゴールとは違うゴールだったかもしれない。でもそれが自分のこれまでの人生のゴールだ。後悔はなかった。

 

ただ現実は37歳で社会人経験なし。何百万もの奨学金の返済を抱えているのが現在地。

さてさて、いかがしたものかと思案しているところに、NAHAマラソンに誘ってくれた例のロースクール時代の先輩がまたも救ってくださった。

「ロースクールに通っていた者たちのキャリア形成塾を立ち上げる。」

という話だった。

不合格とは言え、これまで培った法律知識・問題解決能力・論理的思考は社会でも貴重な資質なはずだと促され、その塾の立上げに携わらせてもらえた。

 

この塾自体は、軌道には乗らなかったのだが、そのご縁が繋がり沖縄でキャリア形成に関わる事業を行う企業の立ち上げに誘われた。

司法試験を長年挑戦している中で、行政書士の資格は有している。この沖縄の立ち上げにおいて、雇われる身でありながら、法人設立事務一切を自分自身で行った。

 

それから、国の委託事業で中小企業・小規模事業者のための魅力発信・雇用のマッチング・人材定着に関わる事業を約7年携わることになる。途中、所属する会社こそ変わるが、一貫してこの仕事を続けてきた。

 

いつの間にか40歳も越え。沖縄で人の親になっていた。

仕事にやりがいもあったが、行政の予算の都合上、要件の外側にいる本当に困っているように見える人を救えないことに、ジレンマを感じる回数が増えてきた。ただ自分1人の小さな力ではそれは変えられない。

 

持て余した時間やエネルギーを何かに使いたくて、出勤前や退社後にさまざまな勉強を再開した。プログラミング・社会保険労務士・ファイナンシャルプランナー・簿記・創業塾…。

また勉強を始めている。既視感がある、1人で行う勉強。そんな時間の中でふと

自分はなぜ、東大受験なんて挑戦をしたのだろうか?

自分はなぜ、弁護士になろうとしていたのだろうか?

そんなことを思うようになった。

 

弱い者。声の小さい人。困っている人。そんな人を救いたいと志したのではなかったか?それは弁護士にならなければできないことだろうか?今の自分ではできないことなのだろうか?

問いが一気に溢れてきた。また自分の中にあるネジが外れそうな感覚だった。

 

一度外れかけたネジは、止められない。勤めた会社を退職し、行政書士事務所の開業届を出した。

2021年は言わずもがな、弱い者、小さい事業者がみな困っている年だった。

開業と同時にこれまでの仲間の紹介で、さまざまなお困りごとが持ちこまれた。

町の小さな床屋の店主。めっきり仕事が減ってしまった運転代行の運転手。フリーマーケットで生計を立てているおばちゃんに、民泊を細々とやっている事業者さん。

 

これまで会ったこともない人たちが、次から次へとお困りごとを運んできた。

弁護士になっていたら会えなかったかもしれない人たちのお困りごとは新鮮だった。

 

自分としては何でもない手助けをしてあげると、驚くほどに喜んでもらえる。

お代を頂戴するのも、コロナの心配もあるから銀行振込でと言っているのに、わざわざ手土産と共に3階の事務所まで現金で持ってくるおばあちゃんもいる。

やりたかったことはこれだったのかもしれない。

 

人生とは、明るく眩しい時ばかりではない。むしろ暗くて辛い道のりだと思う。走り続けていれば、ゴールがあるのか、ないのかすら分からない。

ただそれだけ時間がかかろうとも、自分の足で前に進む。そうすれば必ずゴールはある。

終わりのないトンネルはないのだ。

 

弁護士にはなれなかったが、それでも町の小さな法律家として、この町に根付きこの町の人のために尽くそうと思っている。

 

今は毎日が楽しい。やっとやりたいことができている。

 

PROFILE

栗原恒雄

栗原恒雄

千葉県出身
うちなー婿
7歳と4歳の父(2022年現在)
大学進学を機に沖縄へ。
司法試験に15回挑戦後、社会人経験のないまま37歳で社会人になる。
7年間経験を積んだ後の2021年、沖縄市で行政書士事務所を開業。
始める決断は早いが撤退が苦手。
スポーツはからっきし苦手だがひたすら我慢するだけでいい長距離ランニングにシンパシーを覚える。

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