MY STORIES

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光と暗闇を繰り返す私のスイッチ 4度目のスイッチは下を向いている誰かのために

21.08.12 INTERVIEW

福島知加。彼女を知る人はたいてい彼女を「明るい人」だと形容するだろう。

実際、彼女は明るい。その場にいる人を笑顔にさせる空気と魅力とスキルを持ち合わせている。ただそれだけでは彼女のことを見誤るかもしれない。明るさとは持って生まれた才能や恵まれた環境によってだけ作られるものではない。絶望やコンプレックスや悩みや失意。そんな暗い感情を経てきたからこそ育まれるものなのだ。これはそんな眩い明るさの秘密を知ってもらうための物語。

 

沖縄県中城村。自宅の1階は両親が営む酒屋。弟と妹がいる、しっかり者の長女。だが、記憶はいきなり、イジメられていた幼稚園時代から始まる。

「ちーかーは髪が長い。」そんな理由でイジメられ、階段から突き飛ばされ膝の肉が見えるほどのケガをした。でも、とっさに両親には真実を隠した。自分がおっちょこちょいだから落ちたことにした。

 

人間関係のスタートがこんな具合だったから、小学生になっても他人が怖かった。ニコニコ笑ってはいたが、またイジメられるのではないか?と内心ビクビクしていた。学校では無口で必要最低限のことしか話せない子だった。クラスメイトにも声を聞かせたことがない子がいたほどだった。その反面、家に帰ると母親に向かって堰が切れたように喋り続ける。そんな両極端な子供だった。

心配した母親があれこれと連れ出してくれた。琉舞に通ったり、当時全盛期だったアクターズスクールにも通わせてくれた。

 

少しづつ、自信がついてきたある日。国語の朗読の時間。緊張しながら読み上げると先生がとっても褒めてくれた。

「ちーかー!読むのめっちゃうまいじゃん!」

自分の中のどこかにあるスイッチが押された瞬間だった。目の前に漂っていた暗い闇が晴れて一気に明るいちーかーに変貌を遂げる。

 

小学校高学年になる頃にはクラス一番うるさい女になっていた。とにかく先生に話しかけてしまう。

「こういうことだよね?」とか、やたら相槌やリアクションが多く、授業を止めてしまうほどだった。極端で過剰なのだ。まだ自分というモノをコントロールできていなかった。

 

こんな性格のまま中学生になると…またイジメの対象になった。上履きが隠されるのは当たり前。朝、教室に入ると椅子がなかったり机がなかったりもした。ただここで暗い顔をしたら終わりだ。ということは学習していた。

「明日はきっとこんなことを仕掛けてくるから、そしたらこういうリアクションをとろう」

と帰り道にシミュレーションしながら帰った。

毎朝、無駄に明るくふるまい、へらへらして、どんなにイジメられても気にしていない自分を演じた。相変わらず家庭には暗い顔を持ち帰らず、自分でイジメに屈しないメンタルを養っていった。

 

そんな思春期を経て、高校生になる頃にはコミュニケーション力と行動力の塊のような人間に育っていた。学校では全クラスに友達がいて、部活も精いっぱいやり、塾や習い事も続けていたし、学校行事の活動にも積極的に参加した。とにかく動いていないと死んでしまうかのような行動量だった。家には寝るために帰るだけ。それでも両親は温かく見守ってくれていた。父親は多少うるさかったが、お小言は耳に入ってきていなかった。

 

華の高校生である。恋愛も謳歌した。休みの日には北谷に行ったり、プラザハウスに行ったり、キンタコを食べたり…。とにかく忙しく楽しい時間で溢れていた。そのまま、楽しいキラキラした日々が続くはずだった。

それがある日突然、目の前から光が失われた。

 

高校3年生の夏。同級生の野球の試合を観戦していた際、ファールボールをまともに目に当ててしまった。失明寸前の事故だった。その前後の詳細な記憶はない。人生がようやく光り輝きだしたと思えたのに…。自分という人間を肯定でき始めた数年間だったのに…。それが一気に奈落の底に突き落とされた気分だった。絶望などという言葉は平和な現代に生まれた私たちが気軽に使ってはいけないかもしれない。ただこの時の自分の気持ちを表す言葉を、他に思いつかない。

目の形は変わり、それからずっと卒業式を迎えても眼帯をつける生活が続いた。気持ちの問題ではなく、実際ずっと下を向いて歩くようになった。自分の顔をみんなに見られたくなかったのだ。すると、思考もどんどんネガティブに変わっていった。

 

「こんな顔になった私とはみんな友達を続けてくれない。」

「もう誰の恋愛対象になれないし、ならない。」

 

地元の大学に入学しても、まだ眼帯は外れていなかった。それでもネガティブな気持ちを続けること1年。「ネガティブも続ければ疲れる」ことを知った。幸い身体も治るとメンタルも持ち直した。

この時期、しっかり自分と向き合ってわかったことは2つ。1つは人生何があるかわからない。明日突然事故に見舞われるかもしれないのなら今日を精いっぱい生きよう。ということ。

もう1つは、自立して生きなればならない。ということ。ポジティブな時期だろうがネガティブな時期だろうが生きなければならない。明るく愛嬌のある知加ちゃんでいれる時もあれば暗く人を呪うような不愛想な知加になる時もある。どちらの自分だったとしても、生きていけるだけの力を身につけよう。そう思った。

 

そのためには、何か武器を持たなくてはならない。そう思い定めまた動き始めた。インターンシップやアルバイトで予定を埋め尽くした。カメラマン、音響、営業、販売、ウエディング関連…。とにかく毎日毎日、必死に生きようと決めて動いた。

3年次には交換留学制度を使い関東へ。せっかく東京に出てきたんだから、ならではの体験をしようと、東京ディズニーランドのキャストのアルバイトに就いた。

 

そこでの体験は「働くこと」の原体験を得ることができた。掃除する人だろうが、レストランのスタッフだろうが、ずっと笑っていた。1人1人を尊重するし、目の前のお客様を楽しませる姿勢が徹底されていた。

思えばずっと沖縄の中だけの狭量な視野・偏見に満ちたコミュニケーションに悩まされていた自分に気づいた。

「世界最高峰の職場がこうなんだから、やっぱりこう働くべきだよな。」

はじめて自分の中のでの軸が見えてきた感覚だった。がそれに気づくのはもうちょっと後になってからの話。

 

それからも取りつかれたような行動力で就活シーズンを送った。内定は15カ所くらいからもらった。航空会社・銀行・大手流通業・有名ホテル…。受かれば受かるほど、もっともっと他に何かあるかも?と思って止められなかった。

 

今思えば「自分軸」がなかった。具体的な目標もなければビジョンもない。あるのは焦りと他人の評価だけだった。

 

 

この頃の福島知加は、何かに飢えていた。恐らく周囲から見れば「明るく行動力に溢れた元気な知加ちゃん」だったかもしれない。ただ身体は治っても、高校時までに負った心の傷までは癒えていない。周囲の人とうまくやれているように見えて、自分の事しか信じられない孤独な20代だった。福島知加の光と影のコントラストはこの頃からハッキリと醸成されていく。

 

結局、新卒で入社したのは全国展開している教育関連企業の営業職だった。とにかく自立して生きていかなければいけないと強迫観念に駆られていた判断基準は、初任給や賞与の額面だった。

 

ところが、この仕事は全く向いていなかった。あらゆる学生体験を経て、内定の数も引く手あまただった自分が全く通用しなかった。全国に800名いる社員の中で最下位の営業成績。それもそのはず契約件数は半年間ずっと0だった。

上司からは毎日怒られる。それが影響して営業電話の声がうわずる。

「お前を採用したのは間違ったな。」とまで言われた。自分も他の内定企業でやり直したいと毎日後悔していた。

 

ただこの上司も実は期待してくれていた。暗にいろんな方法でティーチングもコーチングもしてくれていたのだ。ある日、その上司の元部下が社内の全国一位の成績をとっている女性だということで繋いでもらった。何とか、きっかけを作ってくれようとしていた。ただ私は、営業成績1位の人って、どれだけ押し出しが強い嫌な性格の人なんだろう?と勘繰っていたら、予想と反して、電話の声からもわかるステキな女性だった。自分の話を親身に聞いてくれて、たくさんの具体的なアドバイスを惜しみなく教えてくれた。

 

人生2度目のスイッチが入った瞬間だった。

その先輩のアドバイスを忠実に実行して行った結果…。全国1位の営業成績・最優秀社員賞を取るまでに変貌を遂げた。上司からは「奇跡以上だな。」と褒めてもらえた。

 

年間の最優秀賞も取り、翌年自分の部下の育成でも結果を出し、入社2年目にしてやり切った感が出てしまった。自立するために常に動かないと死んでしまうかのような焦燥感にはまだ追われていた。停滞することが赦されないメンタルなのである。

 

それから、東京で半年働いてみたり、リクルートライフスタイル沖縄でじゃらんの営業を2年間勤めたり、キャリアを積んだ。

常に刺激と成長を受けとったが、それでも何か満たされない。27歳の時に個人としての発信力をつけたくて那覇観光キャンペーンレディに挑戦し、選抜される。ただし、それは折しも2011年。日本中の誰もが生と死について向き合った年。自分もまたあの高校時代の事故がフラッシュバックされて、生き急ぐような焦燥感に捉われた。

 

1年間、職業訓練に通いながら自分のキャリアをもう一度見直してみた。27歳になっていた。そんな時に見かけた求人が、沖縄から全国展開を目指すIT企業の人事採用担当者の募集だった。特に観光分野に力を入れている企業でもあった。「観光と人材」。まさにこれまで自分がやってきたことが活かせる場所だと感じ、即応募した。

 

人事の仕事は未経験だったが、会社がちょうど成長拡大期であったことから、沖縄県内外問わず、各職種さまざまな人材が不足している時期。やりがいがあった。

2年目からは新卒採用の主担当を任された。採用の部分だけではなく、内定者研修や新人研修も受け持つようになり、「人が成長していく姿」=スイッチが入ったように変わる瞬間に立ち会う喜びを感じ始めた。

 

気づけば30歳になろうとしていた。ふと振り返ると、自分の武器を持たなくてはいけないという焦燥感を温かく見守ってくれた両親の存在も見えるような歳になっていた。何か恩返ししたい。人生のターニングポイントを迎えたい。そんな想いでいた時、唯一20代で不完全燃焼だったキャンペーンレディの活動を思い出した。那覇観光のキャンペーンレディ時代、両親はとても喜んでくれた。あの笑顔をもう一度見たい、見せてあげたい。

内気な私、何度も闇を彷徨った私。それを支えてくれた両親への恩返しとそんな20代までの私に区切りをつけるため泡盛の女王コンテストに出場。

仕事との両立はどうするか?なんて考えもせず、記念受験のつもりだった。が、結果はめでたく選抜。慌てて会社へ報告して、泡盛の女王兼人事採用担当者の二刀流生活が始まった。

 

泡盛の女王の活動は思いの外多かった。月の半分は常に県外出張。昼間はずっと泡盛の女王として、どこかのショッピングモールでキャンペーン。夕方ホテルに帰って、求人票を作成し、研修プログラムも作成、社内の広報物も作り、すこし眠って朝4時にメールを返信し、そのまま泡盛の女王としてTVでキャンペーンの宣伝。ご当地ごとに話す内容も自分で考えなければならない。

この時代、まだ珍しいリモートワークを駆使して必死に取り組んだ。社内にいない分、遊んでいると思われないように、気を遣った。

思えば、ずっと走り続け、動き続けることで自信が持てないネガティブな自分を隠そうとしてきたこれまでの人生。

達成感もやりがいも感じる、自己肯定感も上がっている気がする。だけど、食べても食べてもお腹すく童話のように、満たされない。

 

いつしか、心と身体のバランスはめちゃくちゃに。眠れない日が続き、動悸はあるし、手がいつも震えている。吐き気も止まらず、病院に行くと、適応障害だと診断された。

どこかホッとした。もう立ち止まっていいよ。と言われた気がした。

もう、自分を自分で追い込むのは止めよう。人生3度目のスイッチは、柔らかく自然に心地よくカチッという静かな音で私を切り替えてくれた。

 

数ヶ月の休憩期間のあと、公共の就職支援機関での仕事に就いた。そこのメンバーが、みんなコミュニケーション力が高く、個々を尊重しながら承認してくれる最高のメンバーだった。2年間の充電と癒しと自信と指針をくれた。

これまで色んな組織で、いろんな働き方をした。思い返してみると、あの会社はダメでこの会社は良い。そういう問題ではなく、働いている自分自身の問題ではないか?そう思うに至った。

 

30代にもなり、結婚もしていた。子どもを欲しいと思っている。これからは自分が信じる道を他人の視線を気にせず歩んでみたい。そう思った。自分に何ができるかはわからないけど、自分が通ってきた同じような苦しみを抱えた人はたくさんいるのではないか?

真っ暗な日々を下を向いて歩いているいつかの私のような人がいるのではないか?

そんな時に、自分が押してもらったスイッチ。自分のどこかにあるスイッチを押す手伝いができないだろうか?

 

そう思い立ち、独立することを決めた。具体的なプランはなかったが、そんな無防備な自分を見かねて、たくさんの人が縁を繋いでくれた。

公的機関で採用に関する相談窓口。商工会の依頼でマナー研修。社内コミュニケーションや研修プログラムを作成するコンサルティング。大学生のキャリアカウンセリング。これまで培ってきたことをフル稼働して、依頼があったことは何でもやらせてもらった。

 

同時に自分に足りないもの、学びたいことも次々に溢れてきた。ワークライフバランス、アンガーマネジメント、コーチング…。独立開業しながら、出産も2度経験した。産休育休期間は充電期間として資格の勉強をする。仕事復帰と同時に新しい取組みを始める。というサイクルが自分には合っているようだった。

 

小学生の頃から、ノートに自分の願望や、やりたいことを書き出す癖があった。

それはつまりポジティブな時もネガティブな時も自分と向き合う時間の積み重ね。

人間、生きていれば色んな自分と出会うことになる。

楽しく働いていたら、楽しそうだねと言ってあげたい。

辛そうに働いていたら、辛そうだね。

お腹空いていたら、お腹空いているね。

その人その人がありのままで働ける環境をこの沖縄でもっともっと増やしていきたい。そんなことを思えるようになった。

 

私が私でいられる場所を必死で探していた。

ありのままの私を受け入れてくれる場所を求めていた。

いつの間にか明るい知加ちゃんを演じる必要もなければ、暗くてネガティブな知加ちゃんを隠す必要もなくなっていた。

私は私なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 

人生で4度目のスイッチは、もう自分にはいらないのかもしれない。今度は誰かのスイッチを私が押してあげる番だ。今はそう思っている。

 

 

PROFILE

福島知加

福島知加

株式会社ワダチラボ 代表取締役「誰もが可能性を信じられる社会づくり」を指針に置き、人材育成・定着事業、働き方支援、スクール事業を展開。中小企業や自治体の人材育成・定着支援、商工会や研修企業主催の研修講師を務め、これまでに県内外110社・約2万人の方の支援に携わる。支援した個人や企業様から定着率や売上の向上、自己肯定感UP、社内初の女性管理職誕生、補助金獲得等、嬉しいお声を続々といただいている。銀座コーチングスクール沖縄校運営、2021年10月育休ママ向けキャリア開発オンラインスクール「育休スイッチ」開校。2児の母。趣味はアイドルを応援すること、泡盛を嗜むこと。

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