人はいくつになっても変われるそんな物語~求められる自分と本来の自分の狭間で~
21.10.13 INTERVIEW
父親は根っからのチャレンジャー。若い時に渡米して一旗挙げようというバイタリティーがあった。母は専業主婦でたまに着付けの先生などをしていた。
二人の出会いはコザの食堂。一目惚れした父が何度も母をダンスパーティーに誘った…なんて話を聞いたことがある。
小学生の頃は活発な少年だったように思う。ただ時代が時代だった。普通に悪い先輩たちはいた。カツアゲもされたし、無視をされたり、いじめみたいなことも日常茶飯事。
それでも、塞ぎこむことなく1人の時は1人で遊ぶし、友達がいれば友達と遊ぶ。
たまにふと
「あの時、あの子にあんな言葉をかけずに、もっとああしていたらよかったのかな?」
なんて考えてみるが、それでも結局どうしようもなかったな。と思い直して本を読んだりゲームをしたりしている少年だった。
地元の中学に入ると、気の合う友人が2人できた。部活も入ってみたがすぐ辞めて、ずっと誰かの家に入り浸り、ケタケタケタケタ笑っていた。何があんなに面白かったのか、今では不思議だ。飲んだ麦茶がめんつゆだったとか、そんなことで腹がちぎれるほど笑っていた。
思春期だった。
マドンナみたいな先輩に恋をしたり、友人が告白するのを手伝ったり…。そんなことをして過ごしていた。
何となくスポーツもできて、勉強もできて、恋愛もできるし、友達もいる。それでも“何か”に熱くなりたい。とは思っていた。
ちょっと、世の中を舐めていて、自分はそのうち何かができる人間になると疑わずに過ごしていた。
高校は沖縄尚学で野球をしたいと思った。あの時代の沖縄尚学は、何か燃えたい中学生を熱くさせる眩しさが確実にあったのだ。
そう思い立っても、多少世の中を舐めている。受験勉強もそこそこに受けたので、危うく落ちるところだった。結果、補欠でギリギリ入学することができた。
ただ、野球部に入るのは止めた。練習をみただけで、異次元の世界であることが理解できた。地元で有名な人たちがうようよといる。まさにオールスター軍団だった。
すぐに切り替えて、楽しい友人たちと遊び、彼女をつくり、宮城海岸でデートする。そんな日々を送った。
何かに燃えたいのに、何者にもなれない。不完全燃焼な毎日の中、ただ大学は漠然と早稲田大学に行きたいと思っていた。
現役での合格は無理でも1年みっちりと浪人生活をすれば受かると思っていた。父方の祖母が住む名古屋に住み、予備校はもちろん早稲田予備校。自分なりにストイックに打ち込む環境を作り1年間頑張ってみた。
しかし結果は不合格。
人生で初めて思ったように結果が伴わない挫折を味わった。
「もう1年挑戦させてほしい…。」父にそう声を振り絞ってお願いした。
2年目の浪人生活。A判定やB判定も出るようになり、今年こそはいけるという手応えもあったが、結果はこの年も不合格。
それでも1年目とは違い清々しくやりきった気持ちになれた。
「オレって普通以下なんだな。」と自分を受け入れられた。
そしてその年は滑り止めで受けていた日本大学経済学部に入学することを決めた。
大学生活は遊ぶぞ!そう決めていた。たまたま声をかけられたダイビングサークル。
沖縄で毎年合宿しているとのことだった。帰省もできるし、水着ギャルともお近づきになれる。2年間の悶々とした受験勉強からの解放を感じるにうってつけのサークルに思えた。
ところが事件は、新入生歓迎の飲み会の翌日に起こった。
それまで優しく楽しかった先輩たちが豹変。
「日本大学、スキン&スキューバダイビングクラブ第33期生長谷川名沖です!」という挨拶を
のけぞって、応援団も顔負けのテンションで何度も練習させられる…。
イメージとは真逆の軍隊のようなサークルだった。
それでもこれまで、何にも熱くなれずに中途半端に逃げ出してきた自分を変えるいい機会だと思った。ここで辞めたら、一生嫌なことから逃げ出す人間になるかもしれない。そう思って、ダイビングセット一式を購入して、退路を断った。
慣れると先輩たちはただ厳しいだけではなく、優しく楽しい人たちだと分かった。わりのいいアルバイトを紹介してくれたり、夕食をおごってくれたりしてくれた。
社会人になっているOB達も度々、訪れる。ダイビングショップを経営している人やダイビング系の出版社に勤めている人。業界に横のつながりのコミュニティが形成されており、結果としては良いクラブに入ったな~と誇りに思い始めてもいた。
このクラブでは、ダイビングはレジャーではなかった。海に入ったら魚などは一切見ないで一緒に潜っている仲間を見ている。いかに安全に潜り帰ってくるか?1時間潜ったら2時間説教がある。
厳しいだけではなくて、実際先輩たちは海の中で頼もしかったし、カッコよかった。
いつの間にか要領がよくて、そこそこ器用に人と付き合う自分ではなく、他人と近距離で接し、自分と相手の良いことも嫌なことも共有することができる人間になっていた。
元来、長谷川名沖は人が好きなんだと思う。それでも人間は近づけば近づくほど、お互いを傷つけ合う生き物だ。いつの間にか自分と他人の距離感を覚え、その距離を詰めることを恐れるようになる。20代の頃一度、このクラブで他人とほぼ0距離で接した経験は、社会に出てまた一度封印されてしまうのだが、きっとこの人は元々他人と0距離で接したい熱い人なのだ。
就職活動はしなかった。そのままダイビング業界で働こうとは思わなかった。まず東京は4年間で充分だった。働くのは沖縄がいい。
そしてダイビング業界で成り立っている先輩たちはいい意味でどこかネジが外れている個性の塊のような人たちが多かった。自分はああはなれない。自分はどこか凡人なのだ。
大学時代、夏休みに沖縄に帰省すると毎日家に入り浸る友人がいた。彼は医者の息子。でも早くにお父様を亡くし、父の医院を継ぐために医学生として必死に勉強しているヤツだった。高校の同級生でもあった。
彼の母親は社会福祉法人の理事長を務めていた。
ある時、
「大学を卒業したら、うちの社会福祉法人の事務長をやってくれないか?」と誘われた。
当時はまだ介護保険法の改正の前後。社会福祉は本来、国がやる仕事。それを代行するわけだから、将来的にも安泰な会社だと感じた。
そういうことよりも、仲の良かった友人と一緒に働けることが嬉しかったし、家族同様の扱いで必要とされたのも嬉しかった。
ただいざ、就職してみると現実は少し違った。いや、だいぶ思っていたのと違った。
介護福祉の業界はいきなり競争の社会に突入したし、何より、すでに100名近くいる高齢者介護施設・ヘルパーステーション・デイサービスの職員に対して、事務職員が少なく、即戦力が求められる状況であることが、すぐに理解できた。
大学を卒業したばかりの若者に、できる仕事など何もなかった。かといって引き継ぎや仕事を教えてもらうことだけを期待していてはおいつかず、まさに独学での仕事がスタートした。
とにかく、自分にできそうなことはどんどん巻き取っていった。
会計・経理を勉強し、分からないことは税理士の先生を夜遅くまで捕まえて、質問した。給与計算もやっていったが当時100名近くの給与を1人でやるのは、難しくタイムカードと連動したシステムを導入したり、社会保険労務士さんの協力を仰いだり、とにかくゼロから何でも覚えていった。職員からは理事長の縁故でいきなり入った特別枠の若造。そういう視線も感じていた。だからこそ必死だった。が必死に楽しかった。
ただとにかく自分には経験が足りなかった。
そのようなタイミングで、定年退職を終えた事務長経験者が臨時で来てくれることになった。その方が、北部地域の社会福祉法人の事務長をやっている方々のコミュニティに参加させてもらえる段取りをつけてもらえた。
みなさん50代のベテランで自分だけが20代。最初は怪訝な顔をされたが徐々に受け入れてもらえ、「よし、名沖を沖縄一の事務長にしてやろう!」と、言ってもらえるまでになった。
事業のコツ。監査対応の情報共有。補助金の申請の仕方。行政文書に書いてある基準に沿うだけでは読み取れない現場ならでは生きた話をたくさんしてもらった。そうやってようやく周りが見えるくらいには落ち着いてきた。そんな20代だった。
結婚もして、仕事も軌道に乗り始め、自信もついてきた頃。
高齢者施設の介護担当課長が退職した。とても優秀な女性だった。事務長として、経営効率や数字部分からのアプローチをする自分と、現場の実情を語る彼女。何度なく意見は対立したが、まさか辞めるとは思っていなかった。
その頃は、職員の立場にたちすぎると、経営判断が甘くなるという考えから、職員とは適度な距離をもって接するよう意識していた。現場の方とは違う観点で組織に貢献するのが自分の役割だと思っていた。退職する人もいたが、それは辞める方に問題がある。うちの法人は他より待遇はいい方だし、何が不満なんだ。そう自分に言い聞かせつつ「何かが違う」という思いも同時にあった。
一度、現場に近いところで働いてみた。
あえて「現場とは距離をとるように」と考えていたが、課題が分からないことに始まらない。事務室からデスクを移動して、介護職員の中で働いてみた。
愕然とした。自分はこれまで何を見てきたんだろう?と打ちのめされた。
例えば設備やシステムは効率化されているから、職員には楽をさせられていると思っていたが、施設の作り上、ナースコールが鳴ると100mを夜勤中に何度も走って駆け付けている必要があった。1日一体どれくらい走ることになるんだろう?陸上選手のようじゃないか。とすら思った。
数字上は職員が足りていても、こういう見えない部分がたくさんあって、そういう穴を辞めた女性課長は丁寧に現場の意を組んで差配してくれいたらしい。
頭が下がると同時に、自分が情けなくなり、申し訳ない気持ちで張り裂けそうだった。
自分がこの法人に就職して15年も経っていた。
それからは、この現場の実情を経営層、理事長にも理解してもらおうとことあるごとに陳情した。
ただ経営側には経営側の考えがある。理事長は利用者ファーストで見ているのだ。まさに困っている人を放っておけない。社会福祉法人の代表としてそれは、譲れない矜持なのだ。だからそれも理解できた。理解はできたが心がそれを飲み込めなかった。
利用者ファーストなのか、職員ファーストなのか?卵が先か鶏が先か?と同じでそれはどちらが正しいということではなく、スタンスや視点の違いなのだと感じるようになってきた。
一度、違う視点で見てしまった景色を、なかなか元に戻すのは難しい。本当の自分のありたい姿と組織の施設長として求められる姿が、日に日にかけ離れていくのが辛かった。毎日お酒を飲むようになった。飲み方も何か良くないものを飲み込むかのような飲み方だった。頭痛もするし、気分が晴れることはなかった。
ただの大学生だった自分を信頼してくれて、約20年育んできてくれた組織をまさか自分が退職をするなんてことは考えたこともなかった。裏切るようで辛かった。家族もここにいたから作ることができた。
そして、親友だったSとの関係が壊れるのではないかと辛かった。
それでも壊れていく自分をこれ以上、放置することはできない。
意を決して、退職を願い出た。何度かの話し合いは行われたが、結果として後任を責任もって育成・サポートすることで受け入れられた。
2021年7月に退職。
業務委託契約で、前職のサポートは続けているが、優秀な後輩たちがいるので心配はしてない。
自分なりに職員ファーストを実践できる施設を作ろうとも考えたが、羽の生えた状態でいろんな人に相談している中で、小宮さんから出てきた「みんなの事務長はどう?」という言葉からある構想が生まれた。
右も左もわからないまさにゼロの状態から、独学で学んできた社会福祉法人の事務の業務。自分はいつも周囲に心ある先輩方がいて、その方々に教えを乞うことができたからこそ何とか20年分キャリアを積むことができた。
今、この沖縄にも同じように右も左もわからない状態で、困っている事務スタッフがいるかもしれない。
とにかく「自分の上司になる人、指導してくれる人がほしい!」と駆けずり回っていたあの頃の自分のような人がいるかもしれない。
そういう人に対して、組織を横断してサポートできる仕事はできないだろうか?そんな着想を得た瞬間からみるみる身体が軽くなり、視界が開け、活力が湧いてきた。
今はあこがれで目標にしていた会社から代表取締役CJOとしてオファーを頂き、またその関連の組織コンサルティング会社で「みんなの事務長」の活動もしている。まさに願ったり叶ったり。
父親がずっと続けていて、自分が育った店の手伝いもできるようになった。「畳むにせよ、続けるにせよ、お前が決めていい。」とは言われているが、今はまだ元気な父親と一緒に働ける機会を得たことを楽しんでいる。
一旦、収入は下がっているが幸福度は200%増している。
そう言えば、長らく海に潜ってもいなかった。こんなに近くに海があるのに20年しっかり目に入ってもいなかったかもしれない。
今はこれからの自分にとてもドキドキしている。今が楽しくて仕方がない。
人は働いていると誰もが、職場での役割を演じる仮面をかぶるものかもしれない。だが一度その仮面をかぶることを苦痛に感じてしまったら…。一度、自分の素顔で働く喜びを知ってしまったら…。
筆者は彼のこの変化をリアルタイムで見ている。人はいくつになっても変われる。ただそれは成長して変わるのではなく、本来の自分に戻る。という変わり方だってあるのだと思う。つまり頑張って変わるのではなく、力を抜いたからこその変化。本来の自分に戻ったことで人生が好転することがある。そう確信させられる彼の物語だ。
PROFILE
長谷川名沖
大学卒業後、約20年社会福祉法人と系列のクリニック(兼任)で働く。事務長、就労支援事業所管理者、特養施設長を歴任。
2021年社会福祉法人退職後、株式会社BowL代表取締役CJO(Chief jimuchou Officer)、一般社団法人ポリネ理事就任。
BowLでは、前職の経験を活かし福祉事業の基盤整備をしていきながら、BowLメンバー及び研修生が、より安心してセルフリーダーシップを発揮できるようサポートしている。
ポリネでは、「みんなの事務長」として福祉事業所の「困った」を解決し、会社全体を整えるを主活動としている。
趣味はジョギング、サウナ、みそ汁食べ歩き
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人はいくつになっても変われるそんな物語~求められる自分と本来の自分の狭間で~
長谷川名沖
Naoki Hasegawa父親は根っからのチャレンジャー。若い時に渡米して一旗当てようというバイタリティーがあった。...