ライフとワークの間 感性と営業力の間 戦略と偶然の間・・・謎多き濃度高めなSTORY
21.06.14 INTERVIEW
小学校の時、絵のことを教えてくれる、おばさんがいた。絵画教室の先生…と言えば聞こえはいいが、幼いながらにその人が、他の大人と比べて異質だったことを今でも覚えている。
ボロボロの服。変わった喋り方。自分の家の電話番号も覚えてないし、さっき使った手帳の在りかもわからない。部屋はもちろんぐちゃぐちゃで、油絵の匂いが漂っていた。
ただの変わり者…。というわけではなく、アーティストとして成り立っている人だった。国内外でいろんな賞をとっていたし、とある県から「この予算で、現代アートをつくってください。」という発注がくるような人だった。
ある時、この先生のガレージに連れられて作品制作の手伝いをさせてもらった。鉄の板を叩いて靴を100足つくる。ただの靴ではなく、その靴が溶けていく様を表現してくれ。そんなお題をもらった。
わずかばかりのお小遣いも、もらった。
「アートで食っていく」とはこういうことか…。一般的なサラリーマンではない生き方を肌身に感じた出来事だった。
大阪芸術大学 立体造形学科 絵画コースに現役で入学し、6年かけて卒業した。大学の教授は堂々と「美大生に仕事はない。」と言い放っていたし、時は就職氷河期。世間には相手にもしてもらえなかった。
卒業後、なんとか男子高校の美術教師として非常勤ながらも勤めることができた。
ただお昼ご飯を3回くらい食う男子高校生が相手。「美術なんかダルい。」そんな子が大半だった。しかも使っていい教材費が1人年間1800円。まともな授業はできない。
そこで A4用紙を1枚渡して、「真っ白な紙を壊す」というお題を出した。当然、生徒からはどういうこと?と質問が飛ぶが「自分で考えろ。」と突き放す。
ビリビリと破る生徒がいる。それでも「これはまだ紙だよね。壊れてない。」と突き放す。
外に出て車に轢かせる生徒が現れた。「うん、でもこれもまだ紙かな…」そんな授業しているうちに、5人くらいの生徒が放課後、「美術部を作りたい。」と言ってきた。その生徒たちの変化を3年間楽しんだ。恋愛相談にも乗ったし、家にまで遊びに来るようになった。当時まだまだ高価だったフォトショップを触りだしたのも、彼らと遊んでいる時期だった。その中の1人が美大に行きたい。と言ってきた時は素直に嬉しかった。
しかしまだまだ時代は世知辛い。実績抜群の有名な美術先生の採用が決まると、無名で若い自分はあっさりと切られた。
この頃は、高校の先生をしながら自分も専門学校に通いWEBデザインの勉強は始めていた。アニメーションやプログラム、DTPデザイン等いろいろあったが、WEBの業界は生き残れるチャンスがあると感じられたからだ。ただすぐに仕事にできるほど甘い業界ではなかった。勉強を続けながら市役所の非常勤のバイトをしたり、なんとか食いつないだ。
専門学校も卒業したのでWEB制作会社に就職しようと試みた。それでも実績もなく、美大に6年通っていたようなやつはいらないと20社くらい落とされた。
何とか1社だけ受かった。18禁のアフィリエイト系の会社のバナーを作って、いかにクリックさせ本体サイトへ誘導させるか?という仕事だった。仕事内容はアレだけど、「人間の行動」が垣間見えて面白かった。ただそこで働いている人がみんな死にそうな顔をしていて、なんだかそれも違う意味で趣があった。
この時期、大阪にある沖縄タウンの三線教室に通い、後々結婚することになる女性と出会っている。いつかは、結婚して、沖縄移住したいね。そんな約束を交わしていた。
そんなある日、関東圏のWEB会社が沖縄に支店をつくる。その人員を募集という求人を見つけた。これだ!と即連絡をして、面接をお願いした。社長が名古屋で会えるとのことだったので、普通電車に乗って駆け付けた。新幹線に乗るお金もなかった。
結果は即日採用。苦労は多いかもしれないが、結婚と大好きだった沖縄移住とそれなりの仕事を得ての新生活。胸は高鳴った。
とは言え時代は2000年代初頭。沖縄という地方でWEB制作の仕事をすることは、簡単ではなかった。環境だけではなく、自分の経験もキャリアも未熟だった。WEBデザイナーとWEBディレクターという仕事の役割分担も知らなかった。
東京本社からの仕事は来るので、めちゃくちゃ忙しかった。毎晩夜中まで作り続けた。これは大変だと、人員を増やしたら、すぐ辞める。「沖縄の離職が激しいぞ!」と本社から指摘が入るが、なにせ営業さんが取ってくる仕事はめちゃくちゃで、ようやく完成したと思ったら専門知識がないゆえに身内とは思えない無茶な変更を平気で言ってくる…。ある時、自分の給料を時給換算したら110円だった…。日差しがまぶしい沖縄で、闇であった。
そんなある日。関東圏の案件を振ってくる東さんの元で半年、“営業”を同行しながら学ばせてもらう機会を得た。どうも営業とデザイナーの間に、埋められない溝を感じていたし、自分の中でもいい経験になると思っていた。が、この東さんの方には特別な事情があった。末期がんの宣告を受けていたのだ。家族旅行や思い出作りも終え、彼は病院のベッドより職場で最後まで働くことを選んだ人だ。
正直、それまで“営業”という仕事を舐めていた。何の取り柄もない人間がやっている職種だと。その考えが180°間違いだったと教えてくれたのは東さんだった。細かい所作に始まり、人間関係の作り方、考え方、契約のポイント…。とにかく営業のイロハを手取り足取り教えて頂いた。
東さんに教えてほしいことは、次から次に溢れてきたが、自分の学びを待ってくれるほど病は甘くなかった。東さんに教えてもらった“営業力”は、この会社のために使うのではなく、自分のために有難く使わせてもらおう。それが唯一の恩返しだと思った。東さんが旅立たれたのちに会社を辞めた。
その後、個人事業主として独立してWEB制作の仕事を始めた。東さんの営業スキルを大いに使わせてもらった。沖縄にいながら、数ヶ月に一度、ここはと思うWEB会社に営業をかけて、便利な外注として使ってもらう。そんなスタイルから始めていった。
沖縄ではずっと関心があった沖縄県三線製作事業協同組合に入って、WEB制作のみならず、伝統工芸の指定を受けるためのアレコレなど…年配の方が苦手な部分を手弁当で、手伝った。
ライフとワークをハッキリ分けるつもりはなかった。東京へ営業に行くついでに伝統工芸の勉強をしに行ったり、またその時の知見や人との出会いが次の仕事に繋がったりした。
いつの間にか、食べるのに困る。という環境は脱していた。
それもこれも東さんのおかげだな…。
そんなことをぼんやり考える。そうこうしているうちに沖縄に住んで10年も越え出した。もう少し沖縄に関われる仕事に軸足を置きたいな。そんな気持ちが湧いてきた。
それには、ただ自分が「WEBデザインができる」では、足りない。そのうち枯れてしまう何かも感じていた。その頃、「WEBサイトをつくる」より「なんかWEBで困っている」という話が増えてきた。お客さんが困っている。それに対する改善案を提案する。それにはハッキリとしたデータやロジックが必要だ。
そんな時、同業の友人が開いたイベントで出会ったのが、WEB解析士という仕事だった。久しぶりに本を読んで、勉強して、試験を受けて、合格して…。という日々を送った。
新鮮だった。
それからは“WEBデザインする人”から“WEB周りのお困りごとを解決する人”としての仕事が増えていった。そんな折、沖縄ITイノベーション戦略センターという沖縄県の官民が一体になって立ち上げた法人に参加しないか?と声をかけてもらった。これまでやってきたキャリアが全て繋がっているようなご縁を感じて、面接を受けた。
今は、個人事業主としての仕事と、この場所での仕事を半々くらいでやせてもらっている。
ここで終わるのが普通の人のSTORYだ。冒頭でも書いた通り、彼は変人なのだ。どこからが仕事でどこからが趣味なのか…いやどっちが仕事でどっちか趣味なのか…とにかくライフとワークの境目が曖昧だ。意図して戦略立てて動いたかと思えば、急に出会いやご縁に受け入れて流れに身を任せる。時間を少し巻き戻し、彼がWEB解析士として仕事のステージを上げた時期の話を付け加える。
ある日、散歩をしていた。
歩くと今まで目につかなかったお店が飛び込んでくる。
怪しい雰囲気を醸し出した店ほど気になってしまう。
その場で入る勇気はないが、2度3度と通るうちに引き込まれるように入ってしまう。それがボートゲーム専門店だった。
店主と話し込んでいるうちに、1個買って帰ってしまった。それが面白くて、また1個また1個と買い足してしまう。ハマるといつもこうなのだ。
家族や友人とやって、必ず笑いが起きるゲームがある。
ただ自分は3~5時間かけて遊び、結果が「なんのオチもない」感じで終わった後、しーーーんと沈黙が流れるゲームが好きだ。「重量級のボードゲーム」と呼んでいる。
遊んでいるうちに、周辺の情報収集や勉強をしてしまう。
ゲームの要素を取り入れると、社員教育や資格勉強にも応用できることがわかってくる。
またボードゲームを専門で作っている会社にも繋がってしまう。そういう話をまた周囲に話してしまうから、そのうち仕事になってくる。
「まいったな…。」
自分はあくまで遊ぶ専門でよかったのに…なんて首を傾げつつ、使えそうな補助金を調べて、それらしく申請してみたらあれよ・あれよと進んでしまう。また遊びが仕事に繋がっていく。
せっかく自分がボードゲームを作るなら、お世話になった沖縄に何か返せるものにしようと思っている。一発当ててお金にしたい。などと言う想いは露ほどにもない。
思えば、人間としての濃度が濃い目の人に出会うたびに助けてもらってきた人生だ。決して自分のチカラだけでここまで来てない。
身体が動くうちは仕事して老後の蓄えくらいは残したい。
親戚の子どもが何か学びたいと言ってきたら、「お金なら出したるよ。」と、ポンと出せるくらいの格好はつけたいが…。やりたいことはそれくらい。
そんな自分とここまでついて来てくれた奥さんを繋げてくれた沖縄。
なんだかんだでずっと好きなままでいさせてくれる怪しい魅力を持った沖縄。
そんな沖縄のためのボードゲームを今は作っている。
これを作ったらまた次の何かを見つけるかもしれない。
興味がそそられる濃いめの何かであること期待している。
PROFILE
川越隆秀
千葉県出身
沖縄県那覇市
Web解析士
人生は人のつながりがすべてです
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人はいくつになっても変われるそんな物語~求められる自分と本来の自分の狭間で~
長谷川名沖
Naoki Hasegawa父親は根っからのチャレンジャー。若い時に渡米して一旗当てようというバイタリティーがあった。...