MY STORIES

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自己肯定感が低く立ち位置迷子。「かまってほしい」私だったから ありのままの「あなたの話」を聞かせてほしい。

21.06.07 INTERVIEW

医療事務として病院で働く父、薬剤師として病院で働く母の間に生まれた。

2歳下のハーフみたいに女の子らしい妹。唯一の息子として特別扱いをされる4歳下の弟を持つ、完全なる長女キャラ…「お姉ちゃんなんだから」が両親の口癖だった。

 

幼い頃から、知的好奇心が旺盛だった。保育園では絵本コーナーを読破するだけでは飽きたらず、父の本棚にあるマンガや本など片っぱしから読みあさった。

新しい環境が好きで、知らないことを知ることが何にも代えがたい喜びだった。

 

極度の長女キャラと旺盛な好奇心が混ぜ合わさり、成長するにつれ周囲の子供たちからは「浮いた」存在として見られていった。

どんなことも常に1番でないと気がすまない完璧主義。加えて、4月の学級役員を決めるくだりでは必ず一番に手を挙げて、クラスを引っ張る“ザ・級長”

周囲の目は全く気にならず。「自分もみんなが好き!みんなも自分が好きなんだ!」と信じて疑わなかった。そんな無邪気で天真爛漫な少女でいられたのも、小学校3.4年生まで。

この後、衝撃的な事実を知ことになった。

 

この後、度々彼女は、トラウマ化するほどの出来事に見舞われる。実際傷ついてもいるのだが、本人を目の前にすると、それを微塵も感じさせないほど天性の陽気に包まれている。

人は悲しみが多いほど、人には優しくなれるとはよく言ったものだ。

 

「しほさんは、みんなに嫌われています。」

小学5年生の三者面談の折り、唐突に担任の先生からそう告げられた。さらに先生が見せてくれたクラスメイトからの匿名のアンケートには、切りつけられるような言葉の数々が書かれていた。

どんな子でも傷つく出来事だが、さらにそれまでの優等生キャラという自己認識との落差が加わり、次の日から教室に入るのが怖くなり、保健室に通う回数が増えてしまった

 

そんな心の傷を負いながら中学校に入学。

すっかり目立つことが怖くなった。だからといって控えめに大人しくしていると、今度は引き出しの中に陰湿な悪口メモが入っていたり、靴が隠されたり…。どうふるまうのが正解かがわからず、すっかり「立ち位置迷子」になっていた。

 

本当は、先生の話は理解できているけれど、間違えたふりをしてみたり

テストで1番を取ると嬉しい反面、周囲の目が怖くなって次のテストではわざと席次を落としてみたり。

堂々と発表すればいいのに、わざとふざけて怒られてみたり。

好きでもない男の子に告白してみて、全く好きではないのに8カ月付き合ってみたり。

とにかく、感情の浮き沈みが激しい完全なるこじらせ女子

 

家庭でもトラブルが頻繁に起こっていて、家の中はいつもピリピリしていた

ちょっとやんちゃな友達に憧れ悪ぶって髪の毛を染めてみたり、ピアスをあけてみたり、友達と授業をさぼってみたり。遅刻もするようになっていたけれど、親の前では見せずにいた。心配をかけたくない気持ちもあったけれど、何より親に叱られるのが怖いビビリだった。

 

一方で、先生には怒られても全く気にしなかった。中1の担任の先生は、今では考えられないような体罰教師で。反発し意見を言うと「あいつは面倒くさい奴だ。問題児だ。」と平気で公言するようなだった。

「あんな大人にはなりたくない」と、ますます自分の世界に閉じこもり、学校で悩んでいても自分の気持ちを話す機会がどんどんなくなっていった。

 

ただそんな時、唯一自分の話を聞いてくれたのが、小5で保健室通いが増えた頃から通い始めた塾の先生だった。生涯の恩師になるこの先生(=塾長)は、勉強の教え方はもちろん、何より生徒の心に寄り添ってくれる厳しくも優しい女性の先生だった。

初めて出逢った「自分の話を本気で聞いてくれる」大人の存在だった。

 

どんなに心と生活が乱れても、勉強だけは続けた。見た目もパッとせず、何キャラか微妙で、友人関係に悩み親にさえ胸の内を明かせないこじらせまくった思春期、この塾と塾での勉強が生きる支えだった。

 

中2の時には、部内のいじめがエスカレートしてきて、耐えきれずに部活を辞めた。「とにかくできるだけ同級生がいない学校に行きたい!」という思いだけで、進学校への受験勉強に打ち込んだ。

時折、部活を辞めると決めた時や、家が辛くて帰りたくない時なんかは、プレッシャーでパニックを起こし「ABC」のアルファベットすら書けなくなった時も、塾長が温かく心をほぐしてくれたおかげで、なんとか合格することができた。

 

思えば「生徒の話を聞ける先生ってすごい。」そう思い、初めて、教師を意識した瞬間だったかもしれない。

 

高校時代。周囲は秀才だらけ。わざと間違えて席次を落とすどころか、飛んでも跳ねても敵わないような人たちに囲まれて、うれしかった。ようやく本当の自分を出しても「浮かない」環境を手に入れた。

その中で、唯一ほかの秀才と渡り合えた教科が「国語」だった。自分の得意な国語と、過去の自分の体験を掛け合わせ、「国語の先生になりたい」「地元である沖縄で働きたい」と考えるようになった。結果、琉球大学教育学部に進学を決めた。

 

無事、大学に入学。

大学の講義もそこそこに熱中したのはむしろアルバイトだった。

自分がお世話になった塾に、教える側として帰ってこれたことがうれしかった。

 

大学で習う教育論より、毎日塾にやってくる子どもたちとのリアルな授業の方がよっぽどためになったし、何より楽しかった。親や学校から離れたところで出会う小学生中学生の子どもたちは、まさに可能性の塊だった。一時期悩んだ様子の子でも、ちょっとした手立てで「グン!」と伸びたりする。思えば、過去の自分を投影していたのもしれない。

 

おぼろげながら、自分がなりたい教師像も見え始めてきた大学3年の教育実習。人生ではじめて大きな挫折をした。そのきっかけが、教育実習だ。

 

教育実習は、8月の夏休みから準備が始まり、9月に実際に授業をする。3人チームで作った「指導案」という授業のプランを現役の先生に見てもらい、アドバイスをもらって直して準備をする。それが、まったく「OK」をもらえない。それどころか「ダメ」とだけ言われ、どこがどうダメなのか教えてもらえない。悩みまくるのに答えは出ず、平均睡眠時間が1時間・・・みたいな寝不足の日々が1カ月続いた。

 

ある日、学校の正門の前で涙が止まらなくなって足が止まり、突然学校に入れなくなった。教育実習生にも関わらず「1日不登校」になってしまった。失敗した。挫折した。私はもうだめだ。立ち直れない。そんな思いで頭がいっぱいになり自分を責めまくり、とうとう欝になった。

 

大学はなんとか卒業したものの、本当はもう教師になりたいとは思えなかった。

だからといって教師以外の道も見いだせず、悶々としながらアルバイトをしていたある日。ある小学校で事務員の枠がある、という連絡があった。

学校ではあるけど教師ではない。今の自分にはちょうどいい距離感だ。そう考えて即決した。

約2ヶ月だったが、久しぶりに子どもたちと関わる日々は楽しく、離れた所から見る教師の仕事は新鮮だった。その年は立て続けに、高校の進路部担当として2カ月間、入試対策として面談や小論文の添削などを行った。明けて1月~3月は、産休の先生の代わりに中学1年生の担任として、連絡の3日後には勤務していた。

 

めちゃくちゃな1年間だったと思う。

教師に本気でなりたいわけでもなく、気持ちの整理も準備もできないまま放り込まれた学校現場。ただこの最後の3カ月が、自分の人生を大きく変えるきっかけになった。

 

自分自身が一番「こじらせ」ていた暗黒の中学時代。しかも、「中学教師」は唯一自分の中で「ナシ」だったのに。生徒に、そんな半端な気持ちが見すかされていたのかもしれない。初日から給食のパンが自分めがけて飛んできて、目の前に落ちた。足元に落ちたパンが、自信のない自分と重なって見えた。

 

多少なりとも塾で子どもの話を聞いたり、指導したりする経験を持って臨んだが、学校現場では全く通用しなかった。毎日、職員室の席で泣いた。悔しくて、情けなくて泣いた。

生徒たちの前で泣くことだけは絶対にしなかったが、うまくやれないことが生徒に申し訳なく、なにより悔しかった。

 

これまで何度も傷ついた経験はある彼女だが、この時はよっぽど打ちのめされたのだろう。人はとことんまで落ちた方があとは這い上がるだけなのかもしれない。ここから彼女はどこからそんなエネルギーが溢れるだろうか?と思うほどに「教師」をやりだす。

 

悔しさを通り越し負けん気が湧き、気づけば翌年も臨時職員として働くことを決めていた。

4月~、別の中学1年生の担任。

8月~、生徒指導主任。中学3年生担当。

10月~、中学2年生担任。教育相談主任

臨時採用とはいえ、これだけ小刻みに役職と場所が変わることは珍しい。経験の少ない24歳。採用試験も受かっていない身なのに、ある種強制的に一通りの経験を積まざるを得なかった。ただ自分にとっては、願ってもない経験だった。

自分史上もっとも暗かった「中学時代」。そして、臨時教師として何度も苦い経験を味わわされた中学校。でも、各学校での経験は苦しくもあったけれど、子どもたちとの出逢いと成長が、だんだん楽しくなってきた。そうして出た答えはなんと、「中学校の先生になりたい!」だった。子どもから大人へと変容する生徒を精神面で支えたい。そんなささいな想いだった。

 

翌年は、採用試験に合格することだけを目指して、勉強に打ち込んだ。臨時教師を一度やめ、親や周囲の目を気にして気乗りしない仕事をして自分をごまかすのも、やめた。

食事とお風呂と寝るとき以外は、とにかく勉強した。

結果25歳で、採用試験に合格。やっぱり、勉強は自分の味方だ。自分を支える軸となる。そう思った。

 

1年間という初めての長期勤務先は、離島だった。幼小中学校全部合わせて37人の子供たち。中学生は10名。「離島の教員生活は、本島での3年分の経験だよ(きついよ)。」そう言って引き留めてくれる先輩もいたが、期待と喜びしかなかった。

2つ返事で即OK。意気揚々と離島での生活を始めてしまった。ひどい船酔いなのも忘れていた。(船しかない離島だった)

 

「離島での教員生活はのんびりでいいね」と思われるかもしれないが、実際はその逆。24時間教師としての振る舞いが求められ、教科以外の役割も多く、とてつもなく忙しかった。あっという間に2か月で7キロ痩せた。

離島での教育は、小中一貫教育が基本だ。最新ICT教育も取り入れられ、10年前にも関わらず生徒には1人1台ネットが使えるPCがあった。島での教師生活にハマりつつあり、3年は留まりたいと思っていたが、1年で異動となった。東日本大震災の年、26歳で本島南部の中学校に採用された。

 

その後は、採用された喜びから一心不乱に「中学教師」に打ち込んだ。

とにかく「生徒の話を聞ける先生」でありたいという思いから、教師の仕事以外にも自費で「コーチング」を学びに、東京や大阪に飛び日帰り弾丸研修もした。

しかし、常に学び続け「質の高い学びを生徒たちに伝えたい」あまりに、思いが強すぎて暴走した。過労で2度救急搬送された。生徒に自分の考えを押しつけてしまい、行き過ぎた指導をしてしまったこともある。保護者からクレームの電話をもらったり、生徒から反発されたことも少なくない。

今思えばいつの間にか「生徒の話を聞きたい」という当初の思いを忘れ、多忙の中で「生徒を導かなければ」という変な使命感に駆られて、生徒の本当の姿が見えていなかった。

あの当時、反発したり勇気を出して意見を伝えて向き合ってくれたりした生徒達や苦言を呈してくれた保護者の方々には、本当に感謝しかない。モンスターティーチャーだったと思う。合わせる顔がないくらい今でも本当に申し訳なく、恥ずかしい。本当に傲慢だった。

 

向き合ってくれたたくさんの生徒たちや保護者の方々、先輩教師との出逢いや、結婚と出産をきっかけにふたたび「生徒の話を聞く先生」という初心に立ち戻ることができた。

 

そうして中学教師をしていると、難しい生徒には必ず出会う。それ自体は珍しいことではない。自分だってそうだったのだ。初めは反発しても粘り強く向き合い、「どうしたの?」と問いかけると、ぽつぽつと自分の気持ちを話してくれる。荒れる生徒の大半は、家庭に複雑な事情を抱えている。家庭が安心できる場所になると、子どもも次第に落ち着いていく。

 

だからといって、親だけが悪いわけでもない、沖縄という環境が悪いとも言いきれない。

子どもを支えたければ、親も支えなければ。いつしか、そう考えるようになった。ただ自分も子どもを持つ親になった今、独身の時のように捨て身では働けない。自分も周りも「まず核となる家庭を大切にしたい」そう思うようになった。

 

子どもも親も支えるためには、教育現場だけでなく「お金」のことや社会のこと、ビジネスを知る必要があると思い至り、ビジネス塾で学んだりもした。目標を設定して、PDCAサイクルを回し、SNSで発信し、自分のライフデザインを言語化する。

ビジネスの世界で当たり前に語られていることこそ、教育現場に必要なことだと痛感した。

ビジネス塾で学んだことを、アレンジして生徒たちに共有してみると、すこぶる評判が良かった。教育現場に必要なのは、この視点だと確信した。

 

学校では、教師は基本的に黒板の前で説明するスタイルが未だに多い。生徒はお客様ではないため、「相手(生徒)のニーズを引き出す」という発想がそもそも学校現場にあまりないように思う。

生徒の反応を見ずに進める講義型の授業は、さしずめお客様の話を聞かず延々と自分の商品の説明を続けている独りよがりなセールスのようだ。それが教育なはずがない。教育は、もっと子どもの可能性を伸ばして自立に向かう、希望に満ち溢れたもののはずだ。もっと自由なはずだ。

 

最近は、学校は「前時代的な会社員」を量産することをしているのではないだろうか?とすら思うことが多い。また、それに慣らされすぎた生徒たちが、誰かが定型句として作った言葉を、思考停止させたまま、発している場面もよく見かける。それではいけない。

 

自分が苦しい時にはいつも「話を聞いてくれる」恩人たちがいた。

もっと率直な声を聞かせてほしい。考えていることを聞かせてほしい。自分の言葉で話してほしい。自分の人生を生きてほしい。自分を大切にできてこそ、相手を大切にできる。そんな力が大切なんじゃないか。教え育てる「教育」ではなく、共に学び育つ「学育」の環境こそ、子どもたちが自分で自分の言葉を語れる基盤になるんじゃないか。

間違えてもいい、苦しくてもいい、遠回りでもいい、とにかく粗削りでも自分の言葉で語れる人間であってほしい。

その小さくて頼りなくてか細い心の声を、聴かせてほしいと待っている大人がいる。そのことを1人でも多くの誰かに伝えたい。今はそんなことを考えている。

 

PROFILE

SHIHO

SHIHO

沖縄生まれ沖縄育ちの生粋のうちなーんちゅ。学ぶことと実践すること大好き。幼少期のトラウマ体験を経てコミュニケーションの大事さを伝えたいと教育業に進む。
話の要約、勝手に議事録、人の顔を覚えるの得意。

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