MY STORIES

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360°どこでも行ける 自由にやったらいい SOSが聞こえたら全力で助けるから

21.06.03 INTERVIEW

東京都八王子市出身。山と川に囲まれた東京のベッドタウン。共働きの両親と妹が1人。

漫画や映画では「何の変哲もない家」として描かれそうな、一戸建ての家に住んでいた。

当時としては、そんなに多くない共働き世帯の兄として、妹の世話と自分自身の身の回りのことをやるという生活が当たり前だった。

親の教育方針も、さほど特徴はない。「人様に迷惑はかけるな。」そんなことくらいだったと思う。休日は家族で、近くの山や川で遊んだり、父親の地元の海で釣りをしたり。共働きで寂しい思いをさせている・・・という負い目からなのか、家族4人が上下関係のないフラットな関係で育った。

友人は多い方ではなく、どちらかというと自閉傾向があったように思う。

ただ、小学校から高校まで、ずっと同じクラスだった親友が近所にいたし、なんとなく、なんとかなっていた。

6年生の時に、父親のススメだったかきっかけは忘れたが、ボーイスカウトに入団した。

始めは、「すげー訓練」な匂いがして戸惑ったが、結果として高校2年まで続けることになる原点の1つだ。ボーイスカウトの中で、きびきびと動いたりしている自分は嫌いではなかった。

 

中学生になっても、特に何かに打ち込むわけでもなく、ぼーっと過ごした。

ただ週末のボーイスカウト活動は積極的だった。技能検定も一生懸命取り組んだし、地域の清掃活動や赤い羽根共同募金の活動も、部活感覚でやっていた。

学校よりは孤立しない。何かを強制的にやらされるわけじゃない。規律はあるが、お互いがお互いを支え合うことが前提の場所というのは、少年牛木にとって、居心地がよかったのだ。

 

高校は進学校に入った。小学校からの親友と同じ学校に行きたかったからだ。

東大に行くぞ!という学校だったので、勉強は必死にやらないといけなかった。授業で「わかりません。」という言葉はNGで、予習をしっかりやらないといけない環境だった。

それでも、高校時代の思い出は、「バンド活動」。当時は洋楽コピーバンドが主流で、石を投げたらバンドをやっているヤツに当たる…。くらいみんな当たり前にやっていた。

バイトをしてドラムセットを買い、実家の離れに持ち込んで、そのままそこがメンバーのたまり場になった。偶然が重なり、1年生の頃から毎年、文化祭の後夜祭でトリを務めることができた。

女子にモテるためにやっていた・・・わけではなく、純粋に音楽が好きで、演奏が好きなバンドだった。

 

ただこの頃になると、実家と地元から離れたくて仕方がなかった。

相変わらず、人間関係はうまく構築できない。ある時、ふと50歳になった自分を想像してみた。

八王子で、小学校からの人間関係を引きずったまま、びくびくおどおどして、他人の顔色を伺う地味なおっさん…。

想像しただけで悪寒が走った。何としても、ここを抜け出したい!自分も人間関係も全てリセットして新しい世界に飛び立ちたい。そう思った。

 

青学や明治には受かったが、肝心の実家を出ることができる志望校には落ちた。

3月、国公立2次試験の段階で、急遽、合法的に家出をできる最後手段として琉球大学農学部を受験した。家から遠ければ、どこでもよかった。これが沖縄との出会いだった。

 

アパートの下見に行くこともできないまま、直接沖縄に降り立った。

沖縄の痛い日差し、見知らぬ環境、大学生活への期待。いろんな高揚感を携えて、空港から、不動産屋に直で向かった。

「ここしか空いてない。」と、他の選択肢を与えられないまま、契約したそのアパートの床にはゴキブリが一面に這っていた…。強烈な沖縄の洗礼を受けたが、2週間後、琉大の寮に空きがあることがわかり、入れてもらった。

 

12人が1つのユニットでの共同生活。九州出身者が多い中、当時、東京から琉大にくる学生は珍しがられた。面倒見がいい先輩たちにも恵まれ、解放的で明るい自分を手に入れた。

いろんな遊びを教えてもらったが、1年生の夏休み、キャリアの前半生を捧げることになるダイビングとの出会いを果たした。

 

ここで、普通のダイビング好きなら、滔々と海のすばらしさ、ダイビングの魅力を語りだすのが定石だ。ただ牛木克彦の不思議なところは、ここにある。

ここでも、これ以後も、ほとんどと言って、ダイビングそのものの魅力は語らない。大学を休学したり、在学中から働きだしたり、話だけ聞くと「ダイビングにハマっている人そのもの」なのだが、彼の場合、常人が理解する範疇で「ダイビング」にハマったわけではなさそうだ。

 

まんまと乗せられたのか、自分からハマったのか…定かではないが、とにかく1年の夏にダイビングと出会い、そのまま冬も、潜り続け、2年次のGWにはダイブマスターという資格も取得した。

仕事として、ダイビングができる資格だ。

当然、夏休みにはダイビングショップでアルバイトをするつもりだった。あるリゾートホテルのマリンセクションでインストラクターのアルバイトを紹介された。

が、挨拶も早々に先輩スタッフたちの話題が

「昨夜のお客さんどうだった?」と、プロ意識の欠片も感じない下世話な女性談義だった。

ここを紹介してくれた先輩には申し訳ないが、3日で、辞めた。

 

結局、ダイビングの資格を取らせてくれたショップで、タダでもいいから働かせてくれと懇願し、そのまま、益々ダイビングに傾倒していった。

いや、正確に言うと、ダイビングインストラクターにハマっていったのだ。

 

3年生になる時に休学、オーストラリアのケアンズという田舎町で1年間インストラクターとして働いた。ラッキーなことが重なり、オーストラリアについて10日後には、ダイビングインストラクターとして働いていた。人の縁には恵まれていると自覚している。

 

海のキレイさ。外国人との仕事、慣れない英語での講習等など、それなりに刺激と苦労と楽しさはあったが、何よりも一番は、「ダイビングインストラクターをやれている、オレ、カッコいい。」という想いだった。

 

当時、日本のダイビングインストラクターというのは、どこか高圧的で、スパルタな教え方、潜らせ方が主流だった。命を預かる仕事だから、理解できる部分もあるのだが、およそサービス業とは言い難かった。

それがオーストラリアでは、違った。お客さんもインストラクターもダイビングを楽しむという姿勢が第一。この経験はその後にも繋がる大きな財産になった。

 

琉球大学3年次として復学。時は1990年代。沖縄ブームが始まりつつあった。

当たり前のようにダイビングインストラクターのアルバイトは続けたが、忙しさと収入がアルバイトの域を越えていた。まさにバブルだった。

ダイビングのメッカ、北谷の宮城海岸にバスが連なり、毎週末働くだけでも、数十万稼げることもあった。学生ながら、インストラクターの資格を持っている人が少なかったため重宝された。

四駆の車を乗り回し、通帳の預金残高は確認せずに、豪華な食事にも行っていた。

 

一見派手な生活だが、出勤前は鏡の前で笑顔の練習をしてから臨んでいた。根暗なインストラクターなんて、許せない。自分自身ではなく、自分の思う理想のインストラクター像を必死に演じていた。明るく、安心感があり、水中でも陸に上がっても気が回るインストラクター…。誰に強制されたわけではない。ただ、昔の自分、素の自分がイヤだったのかもしれない。

素の自分・暗い自分を覆い隠すように、どんどん、どんどん憧れのインストラクターを演じる生活はエスカレートしていった。

 

就職活動は全くしなかった。

大学は卒業したが、この頃の自分は琉球大学の学生というよりダイビングのインストラクターだった。春だから卒業・・・。ではなく、毎年来る繁忙シーズンの始まり…。という感覚でしかなかった。

 

この頃のダイビング業界はまだまだ色んなことが未整備だった。ビジネス的に観光産業がダイビング需要に目を付け始めていたが、そこの社員であっても無資格者。先輩だろうが、正社員だろうが、自分がいないと、回らない。

元々、上下関係が苦手で無頓着なこともあり、当時の自分は相当に浮いた存在だったと思う。

 

2年後。たくさんのダイビング客をベルトコンベヤーのように回すインストラクターではなく、丁寧なダイビング・丁寧なインストラクターをやりたいと思い、真栄田岬の小さなショップに就職した。

そこで、インストラクターとしての仕事以外の運営面や機材の管理など一から十まで学んだ。

 

その後、バリ島で1年間、インストラクターを経験したりもしたが、毎回人間関係に悩まされ、そして誰かの助けがあって、なんとかなる・・・。ということの繰り返しだった。

 

そんなこんなで、やはりまた人の縁で、那覇のホテルが立ち上がり、そこでダイビングカウンターをやらないか?という話がきた。ちょうど、人に雇われているより、自分で独立した方がやりやすいと感じていた30歳手前。父親の退職金を借りて、自分のショップなるものを立ち上げた。

同時期に、とある琉大の学生から、「ダイビングサークルを作りたいから、いろいろ教えてほしい。」とお願いされた。これが約20年以上続くことになる第2の人生の始まりだった。

 

沖縄の観光業は、ますます盛んになっていく。ダイビングも修学旅行生のカリキュラムに組み入れられるようになり、順調に仕事は入ってきた。

ひょんなことから引き受けた琉球大学のダイビングサークルも、非公認でありながら顧問のような形になっていった。

 

牛木曰く、「ダイビングはレジャーではない。自由を手にするための手段のようなもの。

命の危険はあるが、選択は無限にある。陸上では、進む道は前後左右しかない。また後ろに下がることがネガティブなこととして捉えられる。

水中では、そもそも前後左右の概念がない。斜め上にも行けるし、後ろに下がると言ってもどちらが後ろかは人それぞれだ。また無理に動くことない。その場に留まっていることさえ、水中を楽しめる選択肢の1つだ。」

この琉球大学のダイビングサークルとの出会いはその後、牛木を教育の世界へ導く重要な出来事になる。その背景には牛木が「ダイビングの楽しさを人に伝えようとしたら」こういう、人生観のような教育思想のような思いがあるからだと推察される。これは水中を自分の生き場にしている人の特有の感覚なのかもしれない。

 

毎年、大学生がダイビングを通して成長していく姿を見るのもは純粋に楽しかった。

新入生だった学生が、次の年には先輩として、後輩をガイドする立場になっている。

ただダイビングは常に命の危険と、隣り合わせでもある。楽しいだけのサークル活動では責任が取れない場面が多々あり、深夜まで行われる10歳も年の離れた学生たちの若く粗削りな議論に延々と付き合うこともしばしばあった。

 

あくまでサークルの学生にお願いされて、顧問のような、専属インストラクターのような立場で関わっている。いい加減な指導はできないので、機材は安全性と耐久性が高いものを選んでいた。それが「高い!牛木は無知な学生を騙しているんじゃないか?」と誤解されることもあったが、結果としては23年間、携わることになった。

 

ある時期から、ダイビングを教えることが目的ではなく、学生の彼ら彼女らの成長を見届けるのが目的になっていた。それが正しかったのかどうなのかは今でも分からない。ある学生に対しては青春のいい思い出を作ってあげられたかもしれないし、ある学生にとっては押し付けがましい余計なお世話だったかもしれない。

 

ただその頃から、学生に「キミはどう思っているの?」と問いかけると、全く自分の意見が言えない子たちが急激に増えてきたのが気になった。

水中では、言葉が通じない。自分の判断が必要なシーンがあるにも関わらず、こういう子供たちが続々と育ってくるのは危険だ。なぜ急にこういう子供たちが増えてきたのだろう?そういう疑問が頭をもたげてきた。

 

何か教育を変えなくてはいけないという想いと、一部のサークルのメンバーと継続的に関われる場所が必要だという流れで、家庭教師の派遣センターを始めた。サークルの学生がアルバイトとして関われるから、とりあえず始めよう、というくらいの気持ちで始めた。

しばらくしてそれを聞きつけた埼玉で就職していたサークルの卒業生が辞めて一緒に働きたいと連絡をしてきた。

聞けば、「学校をつくりたい」と熱っぽく話すものだから、「じゃあ、一緒にやろう。」と、フリースクールを始めることにした。

家庭教師の派遣先の中学生の女の子が学校で暴行を受ける事件があった。その後の学校の対応が許せなかったことも重なった。

 

教育者でも、何でもない。ただダイビングのインストラクターを20年続けてきた自分がフリースクールをやると言っても、手探りでしかない。ただ、当たり前に教科を教える学校は、自分の使命ではないなと思い、水中にいるときのように、自分の頭で考え、困った時、助けてほしい時はそのサインを出せばいい。そのSOSのサインだけは見逃さないように見ているから。それだけを伝えた。

 

明確に自分で「教育者になろう!」と思ったことはない。ただ毎日を生きていく中でいつの間にかダイビングインストラクターの仕事は辞めていた。

ダイビングのショップも人に譲り、琉球大学のダイビングサークルにも関わる時間が減り、最後は学生たちに追い出されるように、関係を断ち切られた。

 

立ち上げたフリースクールも、ちょうどスタート当初から関わった子たちが卒業を迎えるタイミングで、子ども食堂や無料塾の開講など、行政が行き場のない子供たちの居場所を作るようになった。

完全に民間運営、授業料で運営していたフリースクールの役割は終わったように感じた。

 

何もかもがひと段落ついてしまった。

そしてダイビングに出会って20年以上になる。

ダイビングの素晴らしさはぷかぷか浮いて、360°どこにでも行ける感覚。解放されている感覚が醍醐味なんじゃないかと今は思う。

いつも何かに追われて、いつも誰かに請われて、その時のその時の判断でここまできた。

ちょうど、ぷかぷか浮いて、これまでとこれからを考えたりもしている。

 

いつの間にか50歳を越えていたが、今まで唯一違うことは、水中ではなく、陸上を行こうと決めたことだ。陸上で自由に動き回るためには、自分のチカラをつけないと生きていけない。今さらながらそんなことに初めて気が付いた。

 

自分の意見が言えなかった大学生。自分の行き場が見つけられない子供たち。

それを自分がどうにかしたい!と言っても、何も変えられない自分でしかない。

特にここ数年はそんなぷかぷか浮いたような時間を過ごしてきた。

ただこんな自分にも、いまだに機会やチャンスや縁をくれる人はいる。

 

教育の何を変えたいのか。若者をどう導きたいのか。そんな大きなテーマを声高に叫ぶことは自分には一生できないと思う。

ただ初めて海に潜る時みたいに恐る恐る挑戦する人がいた時に、そばにSOSを受け取ってくれる人がいる。普段はただただ見守るだけだけど、困ったときは全力で助けるよ、と。そういう無言のメッセージを発する自分がいる。そういう人間で在りたいし、そういう人間がもう少し増えてもいいのではないか?今はそう思って、陸の上で、「前」を向いて歩んでいる。

 

 

 

PROFILE

牛木克彦

牛木克彦

・出身地  東京産沖縄育ち
・どこ在住 宜野湾市
・現在の仕事・肩書 
 仕事:不登校サポート、子育て教育サポート
 肩書き:子どもたちと親御さんのガーディアン

・子どもたちの未来を応援させてください!
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