MY STORIES

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守るべきものを守るため、そんな自分で変わっていく

21.06.03 INTERVIEW

北海道生まれ。6歳と3歳上の姉がいる家庭で末っ子長男として生まれる。
北海道の旧国鉄職員だった父と専業主婦の母の元で育つ。
父がJR東日本に転職することを決め、家族で埼玉に引っ越した。
小学校3年生だった。

 

2人の姉からは、「誠?はめちゃくちゃ甘やかされていた。」と言われる。
自分の中では、無口で偉そうな父と、しつけが厳しかった母の記憶が大半を占める。
小さい頃から、身体はよく動く方で、幼稚園では「暴れん坊」というレッテルを貼られていた。友達付き合いは上手な方ではなかったと思う。
なので、埼玉に引っ越してしばらくは周囲に馴染めなかった。

ただ大好きだった野球がテレビではなく実際の球場で観られるようになったことは嬉しかった。安く手に入った観戦チケットを手に、よく父と神宮球場で観戦をした。
特定の球団を応援するとか、特定の選手を追いかけるというより、自分がやっていた少年野球でのポジションの選手を追って、自分なりに分析するような見方だった。

観戦中、父はビールを飲んでいた。特に何か会話をするわけではなかった。一度、自分に飛んできたファールボールを父が身体を張って守ってくれたことがあった。普段、無口で厳しい父はそんなことはしないと思い込んでいた。「この人もこんなことするんだ。」冷めた視線で客観視する癖は幼い時からあった。

普段、お菓子は買ってくれない父も、野球道具は揃えてくれた。小学校の野球部ではレギュラーでいられた。プライドは高く負けず嫌いだったように思う。何でも1番手にはなれないけど、何かと3番手には付けられる位置にはいようと努力した。

中学でも野球は続けた。

普通の公立の中学だったが、なかなかの強豪で県大会には進めるようなレベルだった。
顧問の先生は厳しく、練習試合でつまらないミスをすると。試合後その場で100本ノックをするような人だった。その様子を見て、相手チームや応援に来ていた保護者が引いていたのを覚えている。

そういうチームでもレギュラーにはなれていた。補欠では意味がないと思うタイプだった。

チームメイトだろうが、所詮はライバルで、自分が4番になりたかったら、そいつの失敗を祈る。そんなことを思う自分が、特に変だという意識はなかった。みんな口には出さないだけでそう思っているもんだと、疑いもしなかった。

高校は、野球部だけで150人もいるような学校には行きたくなかったが、そこそこ上位が狙える学校から推薦の話が来たので、そこに入学した。

もちろん野球部にも入部。だが高1の秋には野球部を辞めた。先輩後輩の上下関係の厳しさが、中学よりもエスカレートしており、意味のない説教や暴力に耐えられなかった。さすがにやってられないと退部した。

ただ、これまでずっと続けてきた野球人生がここで終わると思うと自然と涙が溢れた。色々と自分を正当化しようとはしたが、「野球から逃げた」という後ろめたさも残った。

それをごまかすように、残りの高校時代はバイトをして、遊んで、ギャンブルも覚えて…と生活が乱れていった。甲子園は観る気になれなかった。家族にもなんとなく後ろめたい気持ちがありいつも夜まで遊び歩く毎日だった。

そんな生活をしていても時は過ぎ、高校卒業はやってくる。勉強は嫌いだった。だからといってこのまま働きたくもなかった。その時には、父親がJR系列の旅行代理店勤務になっていたので、何となく観光を学べる学校はいいなと思い、観光系の専門学校に入った。

カリキュラムの選択や取りたい資格を選んで自分で勉強すればいい、というシステムが性に合っていた。国内旅行業務取扱管理者・観光英語検定・航空会社の予約システムが扱えるようになる資格など、興味が湧くものは手当たり次第に取っていった。

この頃には、野球への距離感も取り戻し、社会人チームに入って野球を楽しむこともできるようになった。そこで出会った年上の社会人たちにかわいがられていた。酒とギャンブルと女遊びはこういう先輩たちに仕込まれた。人をしっかり観察すれば、かわいがってもらえるポイントもわかるものだ。そんなことはすぐに身につくのだが、将来は何かをやりたいわけではなく、何者になれるとも思えず、ただただ今日が楽しければよかったし、自分をそう思い込ませてもいた。

最初の就職はそのまま観光業に就いた。初任給が安いことは分かっていたが、「旅行を作る」仕事があることに魅力を感じた。倍率が50分の1だった会社に入れた。面接時には特に手応えがなかったが、「生意気そうで、遊び慣れてそうなヤツだったから。」と後日、上司に教えてもらった。当時の旅行会社は、企業の社員旅行の企画販売が主力だった。「遊びに行く」人たちのプランを設計するのだから、「遊んでいる」人間の方が向いているという理屈だ。世間は何が活きてくるかわからないものだ。

各鉄道のカウンターにパンフレットを置いて、旅行会社に自社商品の売り込みに行く。
1年目からそこそこ売上が上がるから仕事が楽しくせっせと働いたが、2年目からはサボっても大して売上が変わらないことに気づいた。

インターネットが普及して、そもそも旅行代理店や旅行カウンターなんていらなくなるんじゃないか?時代の流れを観察すれば、当然導き出される答えも会社という組織は取ってつけたような言い訳をして蓋をする。なんだかバカバカしくなった。何度か上司が引き留めてくれたが、結局辞めた。

その後、社会人野球の先輩に誘われた入った仕事が、恵比寿ガーデンプレイスにある外資系のコンサルティング会社の中にあるリプロセンターでの仕事だった。

外国人からメールが飛んできて、
「今から20分後に、このデータの資料を20部製本して欲しい。」そんな仕事をする部署だった。

新卒で、いきなり年収1000万円プレイヤーの人がいる事実。一流のコンサルタントたちが作る資料。昨日までいた人のデスクが突然今日なくなっているという環境。

全てが刺激的だった。これまでの自分とは全く世界が違うとは言え、身近でそういう世界に接していると「自分も20代のうちに1000万円プレイヤーになりたい。」そう思うようになった。

初めて素直に、他人に憧れ、目指すべき目標を持てた気がした。25歳だった。

 

何を見て刺激を受けるかは人それぞれだ。

彼は元来、観察眼が鋭く、独自の分析力も優れ、粘り強く努力することもできる。ただそれを表現する術を持っていなかった。それゆえ、周囲から浮いた存在であったように思う。本人も恐らく周囲を「こんなことも分からないバカな奴ら。」という風に見る傾向もあったかもしれない。そんな彼が初めて、純粋に負けを認め、広い世界での自分の立ち位置を求めだした。3年の学問より3日の体験が勝ることがある。

 

この仕事は3年間くらい続けて、20名くらいのリーダーにはなれたが、所詮リプロセンターという雑用を請け負う外注仕事だ。

それでも「1000万プレイヤーのコンサルタント」と自分がそんなに大きく違うようにも感じられない。自分も大きな仕事をして、大きなお金を動かし、1000万円稼いでみたい。

そう思って、ベンチャー企業に転職を決めた。ここら辺で、大きく飛躍するチャレンジをしておこうと思った。

 

この転職先は、人材派遣会社だった。会長と社長の2名しかおらず、社員1号として入社した。3人目のメンバーとして「経営」に携われるのではないか?経営ボードに乗れば1000万円プレイヤーの可能性もある。そう思った。

 

仕事内容も前職の印刷機を扱う経験が活かせていた。結果として50名くらいの採用や育成に携わり、管理職としてめちゃくちゃ働いた。休みも月に1回くらいしかなかった。

給料も1000万円プレイヤーとはいかないが、その半分くらいは稼げた。

ただ当時の心境としては、「スタッフは人ではなくて駒」だった。本心では替わりなんていくらでもいると思っていたが、辞められると自分と会社に都合が悪い時には、歯の浮くようなセリフを吐いてはごまかした。

だんだんと心は擦り減り、自分が嘘をついているのか、本心から言っているのか、境もわからなくなり、ある日、仕事に行ける気がしなくなった。身体が動いてくれなかった。

 

病院で鬱の診断をもらい、疾病手当をつけて会社を辞めた。やりたいこともなく、不眠は続き、やる気も失っていた。いつの間にか30代にも突入していた。

何となく、そんな自分すらも他人事に見えて、おかしかった。これは何か変えないとダメだな、と思い、それまでの「遊び」は一切辞めた。

 

しっかり働ける気はしないがアルバイトくらいは始めようと思い、リゾートバイトの検索でもしてみた。沖縄県の阿嘉島の民宿で住む込みの仕事があった。仕事を辞めて以来、戻ってきた実家の居心地も悪かったので、そこに行ってみることにした。

那覇からフェリーで30分。病院もないので、気軽に薬も処方してもらえない。そもそも台風が来たら数日間身動きができない。そんな島の環境のおかげで、いつの間にか身も心も健康になっていた。

 

この時期に、沖縄本島に住んでいた女性(現在の妻)に出会った。医療従事者の彼女は、自分がうつ病であったことを話しても何も驚かない。これまであまり他人に話してこなかった自分の過去や、誤解されやすい心の内を話しても「うんうん。」と聞いてくれた。何より、こんなことを他人に話せる自分がいることが驚きだった。

 

住み込みの仕事が終わって一度、埼玉に戻った。

なんとなく、モヤモヤしながらホテルで働いてみたり、また人材派遣会社で働いてみたりした。付き合っているわけではなかったけど、沖縄にいる彼女には、たびたび連絡をしていた。

他人に奉仕する心が、彼女には当たり前にあった。それがとっても新鮮で尊敬すら覚えた。また沖縄に遊びに行くからデートして欲しいとお願いした。

自分を癒してくれた阿嘉島で、交際を申し込むと「結婚が前提。そして結婚するなら沖縄で暮らす」という条件でOKをもらえた。

 

東京で沖縄の仕事を探すことにした。

ちょうど、沖縄でゲストハウス事業を新規開業する会社の求人があった。

観光業、立ち上げ、宿泊、そして沖縄。これまでの人生の全てが繋がる職場だった。

最初から、全てが経験済みの仕事ばかり。すぐに評価と信頼は得られた。

 

ただこれまでとは大きく違う要素もあった。妻と、お腹の中に宿った小さな命が共にいることだ。メンタルをやられるほど忙しく働いてはいけないし、誰かのせいにして逃げだすこともできない。そのことが逆に、自分以外の誰かのことを想いながら働くことも悪くはないなと思えた。

 

沖縄のゲストハウス事業の責任者として、数十名を預かるポジションには就いた。

さらには清掃や施設管理する法人を別で立ち上げ、その代表にも就いた。今回もまた組織の3番手くらいの立ち位置だ。

それでも、今回はコロナ禍において真っ先に考えたのは従業員の雇用の維持だった。もう人を駒のようには扱いたくなかった。人に自分の本音や弱い所を見せられるようになった時、他人の弱さも受け止められるようになったのかもしれない。自分と他人の違いに関心が持てるようになった時から、スタッフから慕われるようになった。それが我ながら不思議でまだ慣れない。

 

今でも1000万円プレイヤーは目指している。ただその意味はだいぶ変わってきた。

自分が1000万円欲しいわけではない。沖縄で働く人があまりにそこを目指してないがゆえに損していることが多いのではないか?という想いが芽生えてきた。

自分の心と身体を壊してまで、働くことはない。だからといって、最初から挑戦しなければ自分の限界も分からない。何か”その間”に答えのようなものがある気がするが、それが自分でも何かわからない。

ただあの厳しかった父が沖縄に来た時、息子をあやしている自分をみて、「お前がこんな風に父親をやっているなんてな。」と感慨深そうにつぶやいてくれた。

 

いつの間にか40歳を越えていた。自分ができることと、自分ができないことの分別がついてきた。自分だけがよければいい時期もあったが守るべきものも随分と増えた。相変わらず自分のことを誰かに伝えるのは苦手なままだ。それでもファールボールから息子を守ってくれた父親の気持ちはわかるようになった。言葉ではなく身体を張って守れる人を守っていきたい。それが1人なのか2人なのか、わからない。でもそれが例え1000人であっても、かまわないと思える。守りたい人は守りたい。

 

 

PROFILE

今岡慎

今岡慎

北海道生まれ 埼玉県育ち
宿泊業 取締役/清掃業 代表取締役

私に少しでも興味を持って頂けたら、嬉しいです。
新しい事をやるパワーを持ちたいです!

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