MY STORIES

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人の心は一色ではない。一定でもない。独りで抱えた胸の内を今語り始めた物語

21.06.03 INTERVIEW

以下は20代の頃から彼が取得した資格一覧だ。「バンカーとして資格は身だしなみ。」と彼言うが、中には宅建や販売士まで含まれる。この文字化けのようにも見える資格の数々を取得するに至るには、彼の胸の内にある声にならない声が隠されている。

 

平成17年6月 日商簿記2級/平成19年5月 FP3級/9月 証券外務員2種

平成20年1月 FP2級/3月 銀行業務検定 税務2級平成20年6月/ 銀行業務検定 財務2級/9月 金融業務能力検定 財務上級/融資中級/10月 銀行業務検定 ファイナンシャル・アドバイザー/金融コンプライアンス・オフィサー2級/宅地建物取引士/11月 金融検定 住宅ローンアドバイザー/平成21年1月 金融窓口サービス検定 金融商品コンサルティング3級/5月 金融窓口サービス検定 金融商品コンサルティング2級/ 6月 銀行業務検定 個人融資渉外3級/金融個人情報保護オフィサー2級/ 9月 FP1級 学科/10月 銀行業務検定 確定拠出年金アドバイザー3級/平成22年1月 FP1級 実技/ 5月 金融業務能力検定 預金中級/6月 銀行業務検定 法人融資渉外3級/9月 金融業務能力検定 融資上級/10月 銀行業務検定 法務3級/平成23年8月 中小企業診断士1次試験/平成24年3月〜9月 中小企業診断士養成課程/平成25年5月 金融業務能力検定 中小企業支援コース/平成26年1月 金融業務能力検定 事業再生コース/3月 銀行業務検定 経営支援アドバイザー2級/5月 金融業務能力検定 ABL・動産評価コース/6月 金融検定 決算書分析3級/平成27年2月 販売士1級/5月 金融業務能力検定 医療・介護コース/ベーシックコース/9月 金融業務能力検定 シニアライフ・相続アドバイザー建設・不動産コース/平成28年2月 医療経営士3級/介護福祉経営士2級/平成29年1月 金融業務能力検定 製造業コース/3月 銀行業務検定 年金アドバイザー3級/相続アドバイザー3級/ 5月 金融業務能力検定 アグリビジネスコース/6月 銀行業務検定 事業性評価3級/平成31年10月 銀行業務検定 営業店マネジメントII

 

沖縄県浦添市。5人きょうだいの末っ子として育つ。一番上の姉とは10歳以上離れている。両親は養護学校に勤める教員だった。詳しいいきさつは分からないが、ちょくちょく借金取りのおじさんが来るのが我が家だった。居留守を使ったり、両親はいない旨を伝えたりしていた。直接怖い思いをさせられたり、乱暴なことをされた記憶はない。

ただ、その借金が理由で、父と母がよくケンカしていたのは覚えている。おそらく父のギャンブルや飲み歩きが原因だったようだ。末っ子の自分は、そういう家族の問題を遠くからぽつんと眺めていた。両親が自分にかまう余裕もなかったろうし、自分も放っておかれる方が気楽だった。

 

小中と特に目立つことなく、そつなくこなした。授業はしっかり聞いていれば、だいたい理解はできた。毎日真面目に登校するのはバカバカしくて、自分のペースでそれなりに休んだ。家に帰ると好きなゲームをして過ごす。友達が全くいないわけではないが、何となく自分1人の世界に入れる時間が好きだった。

 

また向こうで酔っぱらった父親がお金のことで母親とケンカしている。なぜ母親は離婚しないのだろう?そう思っていた。自分は家族に迷惑はかけない。その代わり干渉もしない。そういう距離感で育っていった。

 

高校はどこでもよかった。家から通えて、選択肢が多く残る普通校を進んだ。親に迷惑をかけたくない半分、自分のお金は気兼ねなく使いたい半分、そんな気持ちでアルバイトはいくつかやった。焼肉屋さんでのホールのバイトが一番、性に合っていた。働くことは嫌いじゃなかった。バイト代で好きなCDやゲームを誰に気兼ねすることなく買っていた。

ある日、父親が家で転倒して入院した。「ざまあみろ。」「これで少しは大人しくなるだろう。」そう思った。その後働ける程度には回復したが以前のように気軽に飲み歩くようなことは極端に減った。

 

父親が少し落ち着いたからか、上のきょうだい達の手が離れていったからか、母親と関わる時間が増えていった。「何をいまさら。」「放っておいてくれ。」そういう気持ちが湧いていた。

自分のことは自分で考えるし、自分で決める。これまでもそうやってきたし、これからもそうする。ただ、まだ社会に出て働くという気にはなれなかった。一番年の近い姉が、沖国大に行っていたので、自分もそこに行くことにした。他の大学は調べもしなかった。経営・会計・マーケティング。そこら辺が学べる学科があったのでそこに進学することにした。将来は、うっすら銀行員になろうとこの頃から決めていたような気がする。

お金で失敗したくない。お金で困りたくはない。あんな奴にはなりたくない。自分はしっかりお金の勉強をしてやろう。そう思っていた。

 

大学1年は、ダラダラと過ごし2年になってから、焦りだして勉強を始めた。銀行員になる際に有利な資格を片っ端から調べて勉強した。授業の合間やバイトまでの空き時間に、独りでマックなど周りに人がガヤガヤいる中でイヤホンをしながら勉強するスタイルが好きだった。1人で淡々と将来に向けて準備する。周りの遊び呆けているヤツを横目に、頑張っている自分が偉くなったような、そんな気分を楽しみながら、孤独に励んだ。

そんな大学3年になったある日。一緒に就職活動をしていたある友人と深く話した。今の世の中の世情。政治の課題。経済の話。大企業の経営状況。社会問題。沖縄のこと。あらゆることに「自分の意見」がある友人だった。「こんなすげーやつがいるんだ。」新鮮だった。それから、ずっと2人でいろんなことを語り合った。就活はペアになって自己分析をしたり、キャリアセンターに通ったりもした。就活の不安や将来への希望、いろんなことを語り合った。何より、ひたむきに自分の目標に向かって頑張る姿が刺激になる友人だった。

同級生なのに「尊敬」できた。自分のことも彼になら素直に話せた。それもまた新鮮だった。

 

その友人は自分の目標通り、県外の有名な外食産業の会社に就職を決めた。自分もそれに続こうと県内の地銀に絞って就職活動を開始した。その中でも、ずば抜けて自分と相性が良さそうだと思えたのが沖縄銀行だった。合同企業説明会には毎回沖縄銀行のブースに足を運んだ。他の銀行のブースには行かなかった。採用担当の方から顔も名前も覚えられ「照二郎。他も見てみた方がいいぞ。」と心配されるほどだった。この採用担当の方には卒論作成時のアドバイスを頂くような間柄にまでなった。

が、結果は不合格。内定は出なかった。沖縄銀行一択に絞った就職活動になっていたため、気持ちを持ち直すことができず、呆然としたまま就活シーズンを終えてしまった。

 

人生初めてのハッキリとした挫折だった。一緒に語り合った親友に、なぜか謝りに行った。かける言葉なく、ただただ時を一緒に過ごしてくれた。気持ちの整理はつかないまま、コザ信用金庫の契約社員枠での募集があることを知らされた。それまでは浦添の自宅の半径5キロ以内からほぼ出ない生活をしていた。沖縄市にもほとんど行ったことがない。なので、コザ信の存在も知らなかった。本来、高校専門学校卒者を対象とした枠だったが、大卒でもエントリーはできるとのことだったので、受けた。

なんとか滑り込み合格。契約社員での採用で、同じ歳の同期で大卒での採用者とは待遇に差がつけられるスタートになる。それでも目標である金融機関には入れた。正直、ホッとした。

 

同じ歳の大卒入社組に対して悔しい思いがないと言えばウソになる。ただそれをバネに変えようと思っていた。入社する直前にはFP2級を取得。その翌年にはFP1級も取得した。それ以外にも様々な銀行検定資格を取得した。資格を取ると社内に名前付きで貼りだされる。「契約社員待遇である自分がこんなに資格を取っている。」そういう無言のアピールを続けた。が、社内規定によりどんなに頑張っても入社後4年間、正社員転換はないと言われていた。

 

それでも腐らずに、独りマックで朝早く起きて資格の勉強をする日々を続けていた。ちょうど社内に「中小企業診断士を増やそう」というキャンペーンがあり勉強会が開かれていた。さすがに診断士まで取れば、会社も認めざるを得ないだろうと思い、勉強に励んだ。入社4年目、26歳で中小企業診断士の資格を取得した。結果、社内規定の通り4年目の正社員化なのか、努力が認められたのかは分からないが、この年のようやく同期と肩を並べることできた。

 

冒頭、列記した資格の大半はこの時期に取得している。契約社員待遇で入った悔しさがあったからここまで頑張った。という説明では足りないと思う。幼い頃から持っていた父親への感情。自分に刺激を与えてくれた大学時代の親友への複雑な想い。焦燥、悔恨、情熱、反骨、虚栄心、自尊心…。人の心は一色ではない。また一定でもない。綺麗とか汚いとか、他人がとやかく言うべきでもない。ただ彼は自分の心をこのようにコントロールしたのだと思う。それは、分かり易く人が敬意を払いたくなるような形で現れていると思う。

 

それから以来8年間は、窓口や支店での業務ではなく本店勤務で顧客の経営支援業務に当たるポジションを与えられた。営業周りよりもそういう業務の方が向いていた。特に、「創業担当」になってからは、一段と仕事が楽しくなった。社内に前例がなく、自分が初の担当業務だ。何をやるか?から自分で考えていい業務。胸が躍った。

まずは手当たり次第に、商工会議所が主催する創業塾などに自分で参加して情報を集めた。ちょうど中小企業庁の予算で、創業スクールに対して支援を受けられるものがあり、独自の創業スクールを企画することにした。座学中心のスクールではなく、より実践に近い、グループワーク中心の創業スクール。講師も有名な先生を形だけで並べるのではなく、自分の目で選んで実力が確かだと見込んだ人に1人1人頼み込んで集めていった。

 

結果、2年連続「創業スクール10選」という全国表彰を受ける講座にすることができた。実際創業をした人に対しても、金融機関としてはもちろん、自分ができるサポートは惜しみなくしていった。受講者もコザ信の人。というより嘉数照二郎という個人に対して、信頼を寄せて、いろいろ相談をしてくれる人も多かった。人のためになる仕事はこんなに気持ちいいものなのかと感じた。これまで自分がどう評価されるか?そんな物差しで生きていた。何かが変わり始めた。

 

いつの間にか、自分の内だけにあった言葉にならない気持ち、独りで抱え込む気持ちが薄れていた。大学の頃は親友のアイツにしか話せなかった自分の胸の内を、いろんな人に話せるようになっていた。資格の勉強をしている自分、多くの資格を保持している自分をアピールする必要もなくなっていた。勉強しなきゃ、成長しなきゃ、自分を追い立てるような焦燥感は、どこかへ消え失せ、周囲の人の顔が見えるようになっていた。その周囲にいる人達の手助けがしたい、力になりたい。そんなことを想える自分が妙におかしかった。

 

気づけば30代も半ば。後輩も多くなってきた。入った当初は、自分から周囲の人間を遠ざけていたが、今では、愛社精神みたいなものが芽生えている。少なくとも、現場の後輩やお世話になった先輩の中に、本当に大好きな人たちがたくさんできた。

これまでは自分一人だけが、うまくいけばよかった。頑張ればよかった。それがチームや他人を巻き込まないといけないとなると、こんなに大変ものなのか…。と新しい壁にぶち当たっている。ただ今までも思い返すと、何か大きな壁が出てきて、それを乗り越えようとしていた時期が一番楽しかったと言えるかもしれない。その最中は苦しいし、誰かのせいにしたくもなる。だが、目標やゴールにたどり着く瞬間が楽しいのではなく、そこに向かう苦しい過程こそ楽しみたい。近頃はそんなことを想っている。ただ、これまでと大きく違うことが1つある。今の自分は独りじゃない。周囲には、ハッキリと大事にしたい他者の顔がたくさん思い浮かぶということだ。

 

PROFILE

嘉数照二郎

嘉数照二郎

【困った時の嘉数さん】

思春期時代を海外ドラマと過ごした銀行員。大学時代の親友の大きな背中を追いかけて、苦しみながら社会人として成長する。

コザ信用金庫の創業支援担当として、県内金融機関初の創業スクールを企画・立案し、3年連続で全国創業スクール10選に選抜される。

現在は企業支援部の係長として取引先や営業店を訪問しながら、「困った時の嘉数さん」と呼んでもらえるような取り組みを行なっている。

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