人を傷つけ、人に傷ついたとしても「人が好き。」と言える。巡り巡る物語。
21.06.03 INTERVIEW
幼稚園の送迎バスでの帰り道。友達全員の名前を覚え、その降りる場所や順番まで把握し、バスガイドのような、付き添いの先生のような立ち位置で仕切る4歳児。それが私だった。
神戸の下町に育ち、3歳下の弟と、両親と暮らしていた。
母が公文式でパートをしていたこともあり、勉強は熱心だった。100まで書いてくるという宿題をわざわざ1万まで書いていった。小学生になると、習っていない解き方で、算数を解いたりするので、先生から「途中式を書いてみろ」などと言われ、揉めた。
目立ちたがり屋で、世話焼き気質。でもなんだかバランスが悪く、リーダーをやらせてもらうことはない。他人の気持ちに鈍感だったのだ。
一方、地域の町内会では、自由にやらせてもらえた。地域のお祭りや夜回りパトロールなど積極的に関わり、近所のおっちゃんおばちゃん、みな親戚という風情で大らかに育ててもらった。親もそんな自分を愛してくれた。
そんな平和な日々。大好きな町が一変する出来事が起こった。中学2年の冬のある日。のちに阪神・淡路大震災と呼ばれるあの日だ。25年も前の出来事になる。今でも鮮明に覚えている。
家族は1カ月以上、避難所で暮らしその後祖父母の家にしばらく居候した。同級生は3人、近所でもたくさんの知人が亡くなった。弟はその日以来、ショックでしばらく無口になり、母もせっかく建てたマイホームの無残な姿を見て呆然としていた。私は、震災の翌日からボランティアとして中学校を駆け回った。なにせ3カ月間水とガスが止まっていた暮らしだった。家族の中で私は元気に振舞おうと懸命だった。先輩たちと学校新聞のようなものを書き始め、沈んだ被災者のみんなの役に立とうと続けた。
とにかく体育以外は「5」が取れる子だったので、高校は地元の超進学校に入れた。が、それまでの自分のプライドをまざまざと打ち砕く壁。最初のテストで400人中397番。それが自分の学力だった。いきなり、この学校を辞めたいと思ったが後の祭り。
それを何とか繋ぎとめてくれたのが、生徒会活動だった。
周囲は、スーパーエリートになる同級生ばかり。勉強にならない学外活動をやりたがる者は少ない。だが、生徒自治を重んじる校風で、年間1000万円の予算を本当に生徒会が任されている学校だった。この役がハマり、2年生の時に史上初の女子生徒会長に就任した。
この生徒会長の仕事は、まるで中小企業のような体験を積ませてくれる場所だった。
各部活動に対して予算を振り分ける予算折衝。
あまたある書類に印鑑を延々とついて、
A4プリント30枚分ある会報誌を生徒全員の1200人分を製本。
学校関係者の葬儀には公欠扱いで出席、夜12時近い終電で友人たちがなんとか帰宅した後、自分は歩いて家に帰ることもしばしば。(自分だけ家が近かった、というのもあるが)
学力的には、完全においていかれたが、先生たちにはかわいがられ、校長先生から直接生徒会室に内線電話を引いてもらい、連絡をもらうような存在だった。そんなこんなで、いつの間にやら、他校の生徒会同士の交流や地域のイベント・ボランティア活動に目まぐるしく奔走した。
アルバイトと地域ボランティアと生徒会。とにかく親には心配をかけまくっていたツケで、受験前には生徒会の仕事を引退した後は、「国公立大学に入学する」という約束に直面することになる。なんとか合格できる国公立大学を受験することになり神戸大学の夜間部に合格。
これ幸い!?ということで、昼間はボランティア、夜は学校、深夜はアルバイトという生活に突入する。この頃、震災復興のイベントやボランティア活動で、知り合った関西を拠点とするエイサーチームに入ることになり、沖縄にも初めて行った。
ただこの頃になるとあまりにも家に帰って来ない娘と両親との距離は離れていき、理解不能な娘だったに違いない。
この頃、神戸にいながら色んな大人たちとの交流は拡大に拡大を重ねていた。そして沖縄との接点が生まれ始めていたある日。とある沖縄居酒屋で出会った方から
「沖縄に民宿を建てようと思うから、そこの管理人・店長やらないか?」と声をかけられた。元来、人を疑わないタチだし、沖縄という土地の魅力に取り憑かれていたし、元々、大学はそっちのけだったし、ほいほいと話を進めることになった。
予算は数千万。土地探し、設計士との打ち合わせ、本当に0から関わらせてもらった。
未来のことは考えず、とにかく今を生きていた。また自分のためにお金を持っておくという概念がなかった。元々アルバイトの給料はボランティア活動の資金に費やしていた。そんな金銭感覚なため、「自分の生活費の確保」が後回しになってしまう。自分がいよいよ沖縄に降り立った日には、500円くらいしか持っていなかった。
後先考えない。にもほどがある彼女の行動力。でも何とかなってしまうのが人との繋がりなのだ。ちなみにこの頃、彼女に起こった出会いの一部を紹介する。
・近所の沖縄そば屋に入り、地元のコミュニティFMと意気投合し民謡番組を受け持つ。
・そのラジオ局の繋がりで糸満市観光協会を紹介されて理事になる。
・神戸・沖縄間を行ったり来たりしている飛行機の中で知り合ったご夫妻と懇意になり以来3年間海ぶどうを送り続ける仲になる。
・病院の入口にあった移動パン屋さんで、たまたま並んでいた看護師さんと話し込み友達になる。
などなど、出会いのわらしべ長者エピソードに事欠かない。
これを以てして、彼女がどういうコミュニケーション力と人に好かれる要素を持ち合わせているか察して頂きたい。
糸満での民宿経営は、都合4年ほどやっていた。その間も神戸で自然学校の指導補助員を続けていたり、やはり忙しい生活は続いていた。経営の方は、お客さんがついていたが、うまくいっていなかった。住むところと食べるものはあったので死にはしなかったが、スタッフを雇っても、支払うお金は足りなかったので、お客さんが寝静まった後に夜な夜な近所のファミリーマートでアルバイトをしている生活だった。それでも月々の支払いに困って親にお金を借りたりもしていた。
自分1人ならそんな生活でもいいのだが、スタッフとの軋轢や「藤原さんに会いに来た」お客さんがいるのに、多忙な生活のために民宿を留守にすることが多く、うまくいかないシーンが増えていった。
大学も中退して、後にも先にも引けない状態に追い詰められた時、同じ関西出身、沖縄でコンサルティング会社を興したばかりの社長に声をかけられた。
「藤原さんが本当にやりたいことは、何?」そういう根源的な問いをくれる人だった。
気づけば、何の資格も持たない、高卒でしかなく、親に迷惑と心配ばかりかけているだけの自分を否定ばかりしていた。この人の元で、「社会人をやろう。」と思い、民宿の経営を信頼する方に委ね、社会人をやり直すことに決めた。
ここでは、大学生のインターン事業や離島の発展を支える事業、IT企業の新卒採用のコーディネート、様々な講演会や教育プログラムの運営など、あらゆる事業のアシスタントを務めた。事務所には常に大学生のインターンがおり、夜中まで「うんうん。」とお話を聞いてあげた後に、深夜から朝方に仕事を進めるような日々。
「突然、明日講演会やることになったから、人を集めて。」という指示がきたり
「今からのこのUSBのデータを30部製本して、会議室に持ってきて。1時間後に。」と言われ、コンビニのコピー機周辺を占拠して、準備したり…。
今思えば、みんな若く、みんな無茶苦茶だった。そしてなんとかしたし、なんとかなるもんだ。という突破力は身についたと思う。それでも、その代償に人生初めての体重を記録するような激ヤセをした。病院にも通い、医師に「本当に治す気ありますか?」とも諭された。
結果、心身ともに限界がきてこの職場は去ることになった。
ただここでの3年間での出会いと仕事が起点になり、10年以上たった今でもその繋がりで仕事ができている。若いうちの苦労は後から返ってくる。
沖縄に移住して、10年近く経とうとしていたが住居はずっと糸満だった。そのご縁もあってか次の就職先は、糸満にあるお菓子メーカーの企画部署に、社長付という身分で入社させてもらえた。総勢200人ほどの会社で働くのはこれまた初めての経験で興奮した。
産業まつりの出展ブースを作ったり、展示パネルをデザインしたり、広報、商品企画のサポートなどあらゆることを経験させてもらえた。
この企画部自体が新規部署であったため、社内の立ち位置的にもフワフワしており、社長同行も多くさせてもらえた。なぜか社長が運転するプリウスに乗せてもらって移動していたし、工場長の前でいつもおいしそうに試作品を頬張るので、可愛がってもらえた。
その後、糸満市の企業30社余りが出資した会社、株式会社糸満市物産センターに転籍する。糸満市の道の駅内の物産センターを立ち上げ、そこを運営する会社。立ち上げから4年間ここで、これまで培ってきたことを発揮させてもらえる場をもらえた。
ただ、その4年の間に、2011年がある。そう東日本大震災だ。3.11当日は、ちょうど神戸に戻ってエイサー団体の手伝いをしていた。よみがえるあの日の思い出。いてもたってもいられず、沖縄に戻り次第、復興イベントを立ち上げた。結果、3日間のイベントで、協力スタッフや出演者が500人、来場者10000人以上。募金も総額230万円ほど集まった。集客に困っていた施設運営がこの日は嘘のように賑わい、あたたかな空気に包まれていた。
何となく、仕事はこなせるようになり、以前のような深夜まで働くようなことはない。
でも、心のどこかにある「このままでいいのだろうか?」という声が溢れてきたのは、2013年に仙台からきたある経営者の講演を聴いた時だった。
地元の企業や自治体をコンサルティングして、復興に寄与している会社の経営者。曰く「これまでは被災地だからかわいそう。ということで買ってもらえた。これからは良いものを買いたいから、と、買ってもらえるようにしていく。」被災地で戦う経営者の生身の言葉に、身体が震えた。
その経営者に空港で無理矢理アポをとり、何をどう話したか覚えてないが、すぐに退職届を書いて、バタバタと仙台に飛んだ。社宅に住み込み、修行生活に突入した。人間の働き方はそう変えられないのかもしれない。また昼夜問わない働き方に戻った。
自治体の復興計画を作ったり、県産品のアンテナショップを立ち上げたり、宮城沿岸の自治体に干物工場を作るプロジェクトに携わったり…。当初は夢中で働いた。自分たちだけの力では立てない人がいて、助けが必要な人がいる。そういう人を目の前にすると黙ってられないタチなのだとつくづく実感した。
ただ2015年頃になるとふと、立ち止まることも増えた。震災から4年もたつと、本当に困っている人のためにやっていることなのか、何やら不穏で、納得がいかない思いが生まれたことも事実だった。大きなものを動かすには、自分の力も足りなかった。
環境を変えたいと思い、退職を決めた。知り合いづてでこれまでのキャリアを見込まれ、飲食店舗を展開する会社の社長に拾ってもらった。最初の仕事はベーカリーショップの立ち上げ。農家さんとコラボして商品開発したり、地産地消の考え方や商品企画、その後の広報や運営などはこれまでのキャリアでいずれも培ったものが活きた。
ただ、時として組織では正論は疎まれたりするものだ。また経営者の苦労は、所詮雇われの身には伝わらなかったりもする。ここでも、心の距離が徐々に生まれた。そう、「出る杭は打たれる」のだ。
一度、これまでの自分と働き方を見直そうと、立ち止まってみることにした。自分は誰かに何かをしてあげてきたつもりだったかもしれないが、これまで出会ってくれた人たちに、少なからず迷惑もかけ続けてもいた。結局、親孝行すらまともにできていない。いい加減自分自身の力で立たなければならない。そう思ったが、気づけば縁もゆかりもない場所で独り。アルバイトを探すのだけでも一苦労する、所持金が290円しかない女。それが実態だと気づかされた。
思わぬ形で思わぬ時期に、また人生の底にぶち当たった。
とりあえずほとんど知り合いがいない場所でアルバイトをしていたところを救ってくれたのはまた「人」だった。「藤原さんはここを出た方がいい。」と引っ越し費用を工面してくれる人。「こういう仕事をしているので手伝ってくれないか?」と声をかけてくれる人。「リモートでいいから、このプロジェクトのこの部分を手伝ってくれ。」と連絡をくれる人。神戸、沖縄、東北、四国…。だけではなく全国いろんな場所から、人生の色んな時期に出会った人が、いろんな形で支えてくれた。クラウドファンディングを立ち上げたわけでもないのに、みんながいろんな形で支援を勝手に始めてくれた感覚だった。
41歳になった。今は北海道の当別町というところにいる。ある会社のなんでも屋さん。そしてリモートで東北での仕事もしているし、関西や東京でのプロジェクトにも携わっている。ただそんなことより、ここは食べ物がおいしく、そして久しぶりに友人が集まる家になってきている。昔、民宿をやっていた頃を思い出しもする。
人を傷つけ、人に傷つき、出る杭は打たれて心身をすり減らすことも多々あった。それでも今思うことは、「人に救われて生きてきた」という実感だ。
これからも、相変わらず親には何の仕事をしているのか、一言で説明できる日は来ないと思う。それでも、周囲の人に恵まれている事だけは伝えよう。
私は人が大好きだ。
PROFILE
藤原奈央子
高校卒業後、大学を中退し沖縄へ移住。この40年で沖縄から北海道まで拠点を移動してきた、「わりとなんでも屋さん」。
食べること、食べ物を作ることが大好き。人に食べさせるのはもっと好き。乙女座のO型。動物占いはひつじ。
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人はいくつになっても変われるそんな物語~求められる自分と本来の自分の狭間で~
長谷川名沖
Naoki Hasegawa父親は根っからのチャレンジャー。若い時に渡米して一旗当てようというバイタリティーがあった。...
出る杭は打たれる。とはよく言うが、その杭の物語は、たいてい美談として語られる。それを突き抜けた後の“杭”の物語だからだ。「打たれても打たれても、それでも人に救われている。」そう言いきる彼女のありのまま強さを、1人でも多くの人に知ってもらいたい。